キリスト教(キリストきょう, ギリシア語: Χριστιανισμός, ラテン語: Religio Christiana, 英語: Christianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教[1][2]。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる[2]。その多く(正教会[3]・東方諸教会[4]・カトリック教会[5]・聖公会[6]・プロテスタント[7][8][9][10]など)は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い[11]。
[編集] 教派と信徒数
[編集] 教派
詳細は「キリスト教諸教派の一覧」を参照
キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている[12]。
[編集] 信徒数
[編集] 世界全体
世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、2002年の集計で約20.4億人(うち、カトリック約10.8億人、プロテスタント諸派計約3.5億人、正教会約2.2億人、その他教派約3.9億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である[13]。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。
[編集] アジア地域
「中国のキリスト教」、「韓国のキリスト教」、および「タイのカトリック」も参照
アジア諸国をみると、韓国は第二次世界大戦後に福音派のリバイバル運動でキリスト教徒の数が急増し、仏教徒25%に対して、プロテスタント20%・カトリック7.4%となっている[14]。フィリピンは、カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている[15]。その一方で、ベトナムは仏教徒が80%[16]であり、中国は公式統計は不詳だが無宗教が多数派とみられ、それ以外では歴史的にも道教・仏教が主であってキリスト教の信徒数は極めて少ないと推定される。また、中央アジアでは正教会、西アジアでは東方諸教会の信徒が少ない割合で存在している。韓国・フィリピン・東ティモールを除けばアジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派である。
[編集] 日本国内
詳細は「日本キリスト教史」を参照
日本国内ではキリスト教の信徒数は約260万人程度であり人口比では明治維新以後に1%を超えた事は無く(日本におけるカトリック信徒の人口比率は0.3%程度であるが長崎県では約4%である)[17]、神道約1億600万人あるいは仏教約9,200万人という数字に比すと少数派である。G8の国々の中で、人口構成上キリスト教徒が多数派でない国は東アジアの一員である日本だけという特徴がある。なお、これらの信徒の数を単純に合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは各宗教による自己申告の数値であり、また、1人が複数の宗教に帰属することによる重複があることも1つの要因と考えられる。
日本では、行政や文化政策において、国民の信仰が何であるかということは重要視されていないため、詳細な統計は行われたことがない。そのため、日本国内のキリスト教徒に限らず、神道、仏教なども含めて、全宗教の正確な信徒の数は不明である。
[編集] 教義・教理
キリスト教における正統教義・正統教理では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とされる[18][19][20]。正教会[3]、東方諸教会[4]、カトリック教会[5]、聖公会[6]、プロテスタント諸派[7][8][9][10]といった主要教派の全てが、この教義・教理を共有している。アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
キリスト教の正統教義・正統教理を最も簡潔に述べているものが信条(信経)である[21][22]。もっとも重要なものとしてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。 信条は教会内に存在した異端を否定するために成立した経緯があり[23]、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。これら信条は現在のキリスト教の主流派のほとんどの教派が共有する[24]。
[編集] 信条
以下に、ニカイア・コンスタンティノポリス信条によるキリスト教の基本教義を示す。
- 神は三位一体である。
- 父は天地の創造主である。
- 子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
- キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
- キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。キリストは自らの死と復活によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
- キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
- 聖霊も神(=位格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子両者から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
- 教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
- 洗礼(バプテスマ)。父と、子と、聖霊の御名による洗礼。洗礼による罪の赦しを信じる教会においては、神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦すとされる。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる教会もある。ただし、聖霊による新生を信じる教会では、成人の場合新生したキリスト者のみが洗礼資格を持つとし、洗礼による新生を退ける[25][26]。
- 死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体(聖体)と血に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子両者から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
[編集] 異端
異端は、簡単にいえば「一定の時代において多数から正統と認められている考えに対して、少数に信じられている考えや信仰形態」のことである。そのためキリスト教の歴史において異端として排斥された考えや人々は少なくなくはなかったものの、異端とされた側がそれなりの勢力を有していた場合には潰されるまでには至らなかった。なお異端とされた側は自らこそを正統もしくは正当であるとするのであって、異端とはあくまで「正統」側からの分類である。
異端には「神概念を多神論的に解釈する」「キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない」「キリストの十字架(贖罪死)と復活を認めない」「聖霊を人格的存在(厳密には「人」ではないので、位格的存在)ではなく神の活動力とする」「キリストを被造物とする」などといった考えを持つものがある。
次の三団体については正教[27][28][29]、カトリック[30]、聖公会[31]、プロテスタント[32][33][34][35]のいずれからも異端とみなされている。
聖霊を神の活動力とし、キリストを被造物とする理由からエホバの証人が、三位一体を否定し聖書以外に聖典を持つ理由から「モルモン教」がこれに該当し、多くの正統キリスト教から異端とされている。「統一教会」については、正教、聖公会、カトリック、及びプロテスタント側からすれば、異端でさえなく全く異質な団体とされている。
モルモン教については「末日聖徒イエス・キリスト教会」を参照
統一教会については「世界基督教統一神霊協会」を参照
エホバの証人については「ものみの塔聖書冊子協会」を参照
[編集] 職制
「教役者」も参照
正教会、カトリック教会、聖公会は、聖職者制度を有する。聖職者は、主教(司教)・司祭・輔祭(助祭)の三つに大別される。正教会においては主教の中でも高い権限と権威を与えられた9人の総主教が居るが、絶対的な権限権威をもつトップは存在せず、ゆるやかな連合体を形成している。カトリック教会においては教皇が教会の最高指導者であり、その下に枢機卿、大司教等の細分された位がある。
一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、万人祭司の教理から聖職者を設けず、教職として按手礼を受けた牧師をおくものが多い(牧師は「聖職者」とは位置づけられない)。教職の他に教会政治(管理)に長老、監督といった役職を置く事もある。
正教会、カトリック教会においては、女性は聖職者になることができない[36]が、聖公会、プロテスタントでは女性教職は珍しくない[37][38]。
現代では教派によらず、聖職・教職に就くには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが一般的である。
正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・一部のルーテル教会には神に生涯を捧げる信者がいる。これを修道者(修道士)という。修道者は必ずしも聖職者ではなく、多くは平信徒である。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリックにおいては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリックでは、修道士・修道女はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道者となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来たもののみが 修道生活に入る。準備段階、またまれに修道者となった後で、世俗の生活に戻るものもある。
[編集] 教会
一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会員制という。欧米では洗礼記録により、必要に応じて信者であることの証明(洗礼証明書)を受けることが出来る。日本の教会では教会籍という制度で、洗礼による教会員の新規入会、転会、死去などを記録、管理する例が多い[39]。
教会員の多くは、居住地近隣の教会に所属するが、必ずしも自宅からもっとも近くの教会に属す義務があるわけではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では信者が10人前後の場合もある。
複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。カトリック・正教会・聖公会など監督制教会の場合、教区の中心となるのは、主教座聖堂(司教座聖堂)である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけで一教派をなすものを単立教会という。単立教会は原理的にプロテスタントである。教義の近い単立教会が連合した協力組織も存在する。
信徒が転居などに伴い、同一教派の教会から他の教会に移籍すること(転会)も必要に応じて行われる。 これに対して、所属教派自体を変えることは、場合によっては宗教を変える(改宗)に等しいインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多くは単に転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものも有効と認めるが、他の秘跡については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。