『(早稲田大学政治経済学部)教養諸学研究』n.58/59/61合併号(1979年3月)pp.21-38. *(故)牧野力氏:当時早稲田大学政経学部教授、ラッセル協会理事 まえがき バートランド・ラッセルの宗教論の性格や体質について,本誌54号で,「バートランド・ラッセルの宗教論」として触れた。 今回は,彼の宗教観の原点の一部になっている「不可知論」について,伝統的な既成宗教との対比において,改めて考えてみたい。 1.ラッセルの「不可知論」 彼は,『自叙伝』にこう書いている。 ここで,ラッセルの伝記的な点にふれることはなるべく避けたい。〔紙数の面からだけでなく,彼の『自叙伝』は,*2'他の著者に見られない正直な赤裸々な記述'という点でも有名であるので,読者自ら彼の筆致に触れることをおすすめしたいからである。〕 ラッセルは2才で母に,4才で父と死別した。厳格で信仰の深い祖母とビクトリア女王の治世に2回首相を勤め,女王の信任の厚かった進歩的政治家である祖父ジョン・ラッセルの許に兄と(一緒に)引きとられて,育てられた(右写真(祖父の屋敷 Pembroke Lodge)出典:R. Clark's Bertrand russell and His World, 1981)。家族や雇い人たちは皆,彼を親切に扱ってくれたが,所詮,大人ばかりの世界である。成育するにつれ,健康で活発で敏感な彼は広い邸宅の中で,この世にいない両親をあれこれと想像しながら,孤独な思いと戦っていた。何かたよりになるものが常に欲しかったのではあるまいか。祖母と祖父とは勿論,叔父・叔母たちの彼に注ぐ愛情に不足を感じていたわけではなかったが,'確実なるもの'への瞳れは強かった。思考力に恵まれた彼は,それを幼い頃,兄に幾何学の手ほどきを学ぶ時に(受けた時に),自覚した。彼の思索は続いた。思春期の頃,その記録が,『ギリシア語練習帳』の行間にとどめられて,今日まで残っている。語学自習の帳面の行間に記入された理由は,祖母や大人の眼から逃れ,思索を続けたかったからであるらしい。ケ ンブリッジ大学では,数学と哲学とを専攻した。そして,数理哲学,認識論,論理学に学問的成果を残し,分析哲学の雄となった。しかし,別な面もあった。 人間にとって,教育とは何か,という彼の教育論を生み出す背景として,「躾け」についての体験を重ねていた。そして,ビーコン・ヒル・スクールという私立の学校を経営した頃,3才の女児のお臀(排便)の癖をつける上で,自ら面倒をみて,母親と連絡を欠さなかった面もあった。97才の波欄に富んだ生涯を,一筋に貫くある心情にふれる意味で,彼が『自叙伝』の〔まえがき〕に書いた部分を引用しておく。 「まえがき 私は何のために生きてきたか。 最後の「この人生を生きるに値いする人生だと思っている。もう一度喜んでこの人生を生きようと思う。」というくだりに,ラッセルの肯定的人生観,苦悶の叫びに逃避しない勇気,人間であることを貫く決意を,筆者は深く感ずる。これが彼の人間主義(Humanism)の根底にあって,『自由人の信仰』*3の母胎ともなっている。また彼を,明知(Open Minds)と共感(0pen Hearts)と勇気(Courage)のある人生を人間相互に望む求道者たらしめた背景であるまいか,と思う。 読者諸賢も,ラッセルが'神の存在'について知的論証を試み,神は人間に不可知であると説いても,彼を唯の理屈屋とは解しないと思う。 サテ,彼は,どのようにして,人間には神の存在が証明できないから不可知だ,というのであろうか。 彼は神は存在しないとも,存在するとも言わない。今迄行われた存在するという証明法はどれも,証明になっていないと言うのである。(人間に今後も証明できそうもないのなら,また,承知の上で盲信するなら別だが)人間は人間らしく,本性を自覚し,伸長し,有限な存在として,よく考え,理解し合い,勇気をふるって,協力する社会に生きようと,言うのである。 これが若い頃書き,晩年も肯定していた『自 由人の信仰』の本旨である。 ラッセルの不可知論を代表する(神の存在の)5つの証明法の要旨を次に引用したい。*4 @ 第一原因という証明法(The First Cause Argument) |
2012年5月31日木曜日
2012年5月19日土曜日
使徒言行録(使徒行伝・使徒の働き)の15章に、有名な「エルサレム会議」の記事が掲載されています。
アジアないしヨーロッパ地域を伝道するパウロとバルナバは、必然的に、ユダヤから見れば外国人、つまり異邦人に伝道するという問題を抱えていました。
まだキリスト教という宗教が成立しているわけではありません。あくまでユダヤ人のユダヤ教の一派として、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアがここに現れた、ということの証言のために奔走していた彼らです。異邦人、つまりユダヤ教の地盤をもたない人々に福音を伝えたとき、思いも寄らない問題が生じました。
まず、そもそも異邦人が救いに与ることができるのかどうか、という問題。これは、パウロは当然できるという立場でスタートしていましたが、イエスの一番弟子たるペトロは最初懐疑的でした。それが、主から直に幻を見せてもらうことによって、異邦人も救われることを納得して、態勢は整いました。異邦人にも伝道して、よいのです。
けれども、ユダヤ人はすべて割礼を受けています。男性性器の包皮を生まれて間もなく切除するという習慣。衛生的な理由もあるそうですが、ユダヤではとにかく宗教的な理由でこれが伝統的になされてきました。イエスを信じる、つまりユダヤ人の信じていた救いを身に受けるとなると、割礼なしにユダヤ人になることが不可能と、これまでずっと考えられていたために、問題とする人々が現れました。
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。!doctype>(使徒言行録15:1,新共同訳聖書-日本聖書協会)
2012年5月17日木曜日
暦の月名の由来や月の日数はなぜ30日と31日にきまったのであろうか.2月だけ28日なのは?
その説明をするには,現在我々が使っている暦「グレゴリオ暦」のもとになった,古代ローマの暦の話から始めなければならない.
ロムルス暦 | ||
1月 | Martius | 31日 |
2月 | Aprilis | 30日 |
3月 | Maius | 31日 |
4月 | Junius | 30日 |
5月 | Quintilis | 31日 |
6月 | Sextilis | 30日 |
7月 | September | 30日 |
8月 | October | 31日 |
9月 | November | 30日 |
10月 | December | 30日 |
11月 | ・・・・・・・・・・・・ | |
12月 | ・・・・・・・・・・・・ | |
1年 | ・・・・・・・・・・・・ | 304日 |
古代ローマで,はじめて暦がつくられたのは紀元前8世紀で,前753年にローマ建国の祖といわれるロムルス(Romulus)により作られた.これをロムルス暦という.
当時のローマ人たちの生活というのは,農耕面でも軍事面でも,活動を始めるのは,暖かくなる季節,すなわち現在の3月ごろからであったらしい.11月,12月は寒さも厳しく,まさに冬ごもり期で,名付ける価値も無い名無し月の日々だったのであろう.
現在の3月を一年の初めとしたのであれば,5月がラテン語の「quinque」,6月が「sex」,7月が「septem」に由来していることがわかる.また,8月は,ラテン・ギリシャ語の「oct」,9月は「novem」で,10月はラテン語の「decem」からつけられた.
第1月から第4月までは,ローマ神話 の神々の名にちなんでつけられた.第1月は戦いの軍神マルス(Mars)を称え,第2月は春と美の女神アプロディーテー(Aphrodite)を,第3月は豊饒の神マイア(Maia)を賛美し,第4月は母なる結婚の神ユノー(Juno)にささげる月として名付けられた.
では,現在使われているSeptember,October,November,Decemberは2ヵ月ずれているのであろうか.
グレゴリオ暦の生みの親に当たるロムルス暦は,冬の酷寒の頃に日付が無いため,春になって第1月を始めるに当たって月の満ち欠けを基準にするとしても,春の嵐や豪雨が続けば,まったく目安がつかない.大切な主要行事に狂いが生じてきて,不便であった.
ヌマ暦 | ||
1月 | Martius | 31日 |
2月 | Aprilis | 29日 |
3月 | Maius | 31日 |
4月 | Junius |
2012年5月16日水曜日
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!doctype>2012年5月14日月曜日
今年(2007年)もラマダンが近づいてきました。
ラマダンとはイスラム暦(ヒジュラ暦)の第9番目の月でイスラム教徒にとって「断食月」とされています。ラマダンが断食の月であることからラマダンを断食の意味で使うことが多いようですが正確には月の名前です。今年(2007年)のラマダンは西暦の9月13日(予定)から始まります。
イスラム暦(ヒジュラ暦):
イスラム暦は純粋な太陰暦で、預言者ムハンマド(マホメット)がメッカからメディナへ聖遷(アラビア語でヒジュラ)した年、西暦622年を紀元の始まりとするものです。今年(2007年)は1428年になります。(西暦622年7月16日前日日没をイスラム暦の元年3月2日として計算しているようです)
月の満ち欠けを基準にした「朔望月」を1ヶ月として、12ヶ月で1年とします。朔は新月、望は満月を表しています。朔望月は平均して29.53059日ですので1年は354日か355日になります。そのため太陽暦(季節)に対して毎年11日ほど早くなっていき暦と実際の季節がずれていきます。
原則として、奇数月を30日、偶数月を29日にして1年を354日にしていますがイスラム暦の年数を30で割った余りが2,5,7,10,13,16,18,21,24,26,29となる年を閏年として12月(偶数月)を30日にし、1年が355日になります。
!doctype>2012年5月13日日曜日
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☆ 仏教とは?
仏教といえば 南無阿弥陀仏・仏壇・線香・お彼岸・と連想されますが これらはほんとうは仏教ではありません。日本の大乗仏教です。 呪文を唱えたり火を祈ったり先祖供養したりすることを 釈迦(ガウタマ・シッダールタ)(B.C.560-480)さんは勧めてもいないようです。 もちろんそんなことを勧めるお経は沢山ありますが 釈迦さんの勧めではないようです。 それは、実際は大昔のことなので分からないのですが 近代になり 多くの解明が成されて来ています。 「大乗非仏」という 江戸時代の学者「富永仲基」氏からの説が有名で これは、後世に造られた「大乗経典 」の多くが捏造である、という仮説の元に「増合」によりその原初の意味合いが増やされ「加上」によりそれ以前の思想の上に新たな要素が加えられしかもそれが「正統」として装われているありさまを叙述したものですが 仏教もまさにこのようにして今日に伝わってしまっているようです。
☆ 仏教の歴史
「先祖供養」をその本旨とする日本の各宗派は、中国や朝鮮によってもたらされた「大乗仏教」です。インドから北西部のヒンドゥークシ山脈を越えてシルクロードを通り、さみだれ的に伝えられてきた経文や仏像によって形成されていく「北伝仏教」と言われているものです。これに対し、スリランカやタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、マレーシア、ネパール、バングラデシュ、インドなどで行われている仏教は日本では教科書で「小乗仏教」という名で教えられている南方経由の仏教。そして、最後にチベットやモンゴル、ネパールやインドの一部、また日本の真言宗と天台宗の一部はいわゆる「密教」と呼ばれている仏教です。このように、今世界中で行われている仏教を大きく3つに色分けすることができます。
これらのうち、お釈迦様の時代に一番近い仏教を行っているのが上座部仏教であり、これはお釈迦様が亡くなられてから後100年くらいにおこなわれるようになったもの。それに対し、私たちの日本仏教も入る大乗仏教というのは仏滅後500年を経た時代の要請によって生まれてきた教えであり、密教になるとさらに500年、つまり仏滅後1000年を越えて現れた新興宗教と言えます。
☆ 原初の仏教とは?
日本の仏教は、大乗仏教といわれています。そして、最近まで大乗でない仏教を小乗教と呼んでいました。そして小乗教という言葉は、大乗による原初仏教に対する蔑称として使用されるので、まともな人々の間では使用しないようになってきました。小乗教ではなく「上座仏教」と呼んでいます。 そして、上座部と大衆部に分かれるまえの仏教が、「原始仏教」です。原始仏教が、釈尊の直説にもっとも近いという訳です。
釈迦の入滅後、その教えは、説法を聴いた弟子達のそれぞれの記憶に留められていただけであった。その教えがバラバラになってしまい勝手に解釈される事を恐れたマカカショウ(釈迦十大弟子の一人)は釈迦の弟子の中から悟りを開いた者だけを集めて、釈迦の教えをまとめる会議 第一結集(だいいちけつじゅう)を行った(ラージャギルハの結集)。この時まとめられた教典がバイタラヨウという葉っぱを綴ったものに残され、経典のもとになっている。経典が、如是我聞(私はかように聞いた)で始まるのはこの為である。
☆ 第二次結集−根本分裂
お釈迦様の入滅から100年ほどしたとき、ヴェーサーリーにて700人の僧侶が集まって仏典編纂会議(第二次結集)が行われた。その理由は、跋闍子比丘(Vajjiputtaka)が、十項目にわたる従来の戒律に例外を作り、戒律の緩和を唱えたためである。それがこの結集で律(教団規則)に違反すると判断された。この決定に不満をもつ僧侶たちは新たな教団を形成して「大衆部」という部派ができ、仏教教団は「上座部」(保守派)と「大衆部」(革新派)に「根本分裂」する。その後もさらに分裂してゆき20の部派に分かれる。それら原始仏教教団は、 部派仏教=アビダルマ(abhidharma)仏教 と呼ばれ、中でも最も有力な部派は、説一切有部(上座部系)であった。
☆ 三蔵の成立
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2012年5月11日金曜日
キリスト教(キリストきょう, ギリシア語: Χριστιανισμός, ラテン語: Religio Christiana, 英語: Christianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教[1][2]。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる[2]。その多く(正教会[3]・東方諸教会[4]・カトリック教会[5]・聖公会[6]・プロテスタント[7][8][9][10]など)は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い[11]。
[編集] 教派と信徒数
[編集] 教派
詳細は「キリスト教諸教派の一覧」を参照
キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている[12]。
[編集] 信徒数
[編集] 世界全体
世界におけるキリスト教徒(キリスト教信者)の数は、2002年の集計で約20.4億人(うち、カトリック約10.8億人、プロテスタント諸派計約3.5億人、正教会約2.2億人、その他教派約3.9億人)であり、イスラム教徒11億人、ヒンドゥー教徒10.5億人を超えて、世界で最大の信者を擁する宗教である[13]。なお、ここでいうキリスト教信者とは、洗礼を受ける等公式に信者と認められた者の意で、必ずしも積極的に信者として活動しているものを意味しない。
[編集] アジア地域
「中国のキリスト教」、「韓国のキリスト教」、および「タイのカトリック」も参照
アジア諸国をみると、韓国は第二次世界大戦後に福音派のリバイバル運動でキリスト教徒の数が急増し、仏教徒25%に対して、プロテスタント20%・カトリック7.4%となっている[14]。フィリピンは、カトリック83%、それ以外のキリスト教10%、イスラム教5%となっている[15]。その一方で、ベトナムは仏教徒が80%[16]であり、中国は公式統計は不詳だが無宗教が多数派とみられ、それ以外では歴史的にも道教・仏教が主であってキリスト教の信徒数は極めて少ないと推定される。また、中央アジアでは正教会、西アジアでは東方諸教会の信徒が少ない割合で存在している。韓国・フィリピン・東ティモールを除けばアジア諸国では、仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教のいずれかの信徒が多数派を構成していて、キリスト教の信徒は少数派である。
[編集] 日本国内
詳細は「日本キリスト教史」を参照
日本国内ではキリスト教の信徒数は約260万人程度であり人口比では明治維新以後に1%を超えた事は無く(日本におけるカトリック信徒の人口比率は0.3%程度であるが長崎県では約4%である)[17]、神道約1億600万人あるいは仏教約9,200万人という数字に比すと少数派である。G8の国々の中で、人口構成上キリスト教徒が多数派でない国は東アジアの一員である日本だけという特徴がある。なお、これらの信徒の数を単純に合計すると日本の人口を遥かに超えるが、これは各宗教による自己申告の数値であり、また、1人が複数の宗教に帰属することによる重複があることも1つの要因と考えられる。
日本では、行政や文化政策において、国民の信仰が何であるかということは重要視されていないため、詳細な統計は行われたことがない。そのため、日本国内のキリスト教徒に限らず、神道、仏教なども含めて、全宗教の正確な信徒の数は不明である。
[編集] 教義・教理
キリスト教における正統教義・正統教理では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神がある(三位一体)とされる[18][19][20]。正教会[3]、東方諸教会[4]、カトリック教会[5]、聖公会[6]、プロテスタント諸派[7][8][9][10]といった主要教派の全てが、この教義・教理を共有している。アダムとイヴの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪に陥っている存在であるが(原罪または陥罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。
キリスト教の正統教義・正統教理を最も簡潔に述べているものが信条(信経)である[21][22]。もっとも重要なものとしてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる使徒信条(成立時期不明。2世紀から4世紀頃か)がある。 信条は教会内に存在した異端を否定するために成立した経緯があり[23]、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。これら信条は現在のキリスト教の主流派のほとんどの教派が共有する[24]。
[編集] 信条
以下に、ニカイア・コンスタンティノポリス信条によるキリスト教の基本教義を示す。
- 神は三位一体である。
- 父は天地の創造主である。
- 子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない(アリウス派の否定)。また子は父とともに天地を創造した。
- キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない(グノーシス主義や仮現説の否定)。これはわたしたち人類を救うためであった。のち、キリストの人性についての解釈の違いから東方諸教会が生まれた。
- キリストは罪人としてはずかしめられ、十字架上で刑死したが、三日目に復活した。昇天し、栄光の座である「父の右に座している」。キリストは自らの死と復活によって死を克服し、人類をもまた死から解く正当な権能を得たと信じられる。
- キリストは再臨し、死者と生者すべてを審判し、その後永遠に支配する。
- 聖霊も神(=位格をもった存在)である。聖霊はイエスの地上での誕生に関係し、また旧約時代には預言者を通じてその意思を伝えた。聖霊もまた被造物ではない。なお聖霊は父から生じたか、それとも父と子両者から生じたかは後世議論の的となり、カトリック教会と正教会の分裂の契機となった(フィリオクェ問題)。
- 教会の信仰。新約聖書では教会を、イエスの意思によってたてられた地上におけるイエスの象徴的身体であり、聖霊がその基盤を与えたとする。そのような理想的教会は、時間と空間を超えた統一的な存在であり(一性)、神によって聖とされ(聖性)、万人が参加することができ(普遍性)、イエスの直弟子である使徒たちにつらなるものである(使徒性ないし使徒継承性)と信じる。これを実現することが信者の務めである。キリスト教信仰は、他者との歴史的また同時代的共同(交わり)の中にのみ成り立つもので、孤立した個人によって担われるものではない。なお使徒性ないし使徒継承性については、西方教会では意見の相違がある。
- 洗礼(バプテスマ)。父と、子と、聖霊の御名による洗礼。洗礼による罪の赦しを信じる教会においては、神すなわち「父と子と聖霊」の名において教会においてなされる洗礼は、時代や場所や執行者に左右されず、ひとつのものであり、それまでに洗礼を受けるものが犯した罪を赦すとされる。洗礼を受けることは信者となって教会に入ることであり、またキリストの死による贖いを信じうけ認めることでもある。ここから、罪を赦された後=入信後は、信者はその赦しに応えて再び罪を重ねないように努力するべきであると信じられる教会もある。ただし、聖霊による新生を信じる教会では、成人の場合新生したキリスト者のみが洗礼資格を持つとし、洗礼による新生を退ける[25][26]。
- 死者の復活と来世の生命。上述のようにキリストの再臨において、すべての死者は審判を受けるべく復活させられる。信じるものには来世の生命が与えられる。伝統的にキリスト教では、この来世を、永遠、つまり時間的な持続をもたない永遠的現在と解する。
またこれに加えキリストの死(ないし犠牲)を記憶することも信者の重要な義務である。これは礼拝においてパンとぶどう酒を用いてなされる。プロテスタント以前に成立した教会では、パンとぶどう酒が祈りによりキリストの体(聖体)と血に変化すると信じる。カトリックでいうミサ、正教会でいう聖体礼儀はこの記憶を行うための礼拝である。教義を異にし聖体の概念を否定するプロテスタントでも、類似の儀式を行う。これを聖餐という。キリスト教最大の祭である復活祭は、この聖餐をキリストが復活したと信じられる日に行うもので、毎年春に行われる。
教義には教派ごとに若干の変異がみられる。ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタントなどの西方教会は、聖霊を「父と子両者から発し」とし、東方の「父から」のみ発するとする立場に対立する。またプロテスタントとローマ・カトリック他の伝統的教会では教会についての教義に差があり、使徒の精神を共有することをもって使徒性と解するプロテスタントに対し、カトリック他では聖職者が先任者から任命されることに神聖な意義を認め、その系譜が使徒にまでさかのぼること(使徒継承性)を教会の正統性の上で重視する。また聖餐論においても、カトリックや正教会など伝統的教会とプロテスタント諸派の間には大きな意見の差がある。詳しくはそれぞれの教派の項を参照されたい。
[編集] 異端
異端は、簡単にいえば「一定の時代において多数から正統と認められている考えに対して、少数に信じられている考えや信仰形態」のことである。そのためキリスト教の歴史において異端として排斥された考えや人々は少なくなくはなかったものの、異端とされた側がそれなりの勢力を有していた場合には潰されるまでには至らなかった。なお異端とされた側は自らこそを正統もしくは正当であるとするのであって、異端とはあくまで「正統」側からの分類である。
異端には「神概念を多神論的に解釈する」「キリストの人性のみか逆に神性のみしか認めない」「キリストの十字架(贖罪死)と復活を認めない」「聖霊を人格的存在(厳密には「人」ではないので、位格的存在)ではなく神の活動力とする」「キリストを被造物とする」などといった考えを持つものがある。
次の三団体については正教[27][28][29]、カトリック[30]、聖公会[31]、プロテスタント[32][33][34][35]のいずれからも異端とみなされている。
聖霊を神の活動力とし、キリストを被造物とする理由からエホバの証人が、三位一体を否定し聖書以外に聖典を持つ理由から「モルモン教」がこれに該当し、多くの正統キリスト教から異端とされている。「統一教会」については、正教、聖公会、カトリック、及びプロテスタント側からすれば、異端でさえなく全く異質な団体とされている。
モルモン教については「末日聖徒イエス・キリスト教会」を参照
統一教会については「世界基督教統一神霊協会」を参照
エホバの証人については「ものみの塔聖書冊子協会」を参照
[編集] 職制
「教役者」も参照
正教会、カトリック教会、聖公会は、聖職者制度を有する。聖職者は、主教(司教)・司祭・輔祭(助祭)の三つに大別される。正教会においては主教の中でも高い権限と権威を与えられた9人の総主教が居るが、絶対的な権限権威をもつトップは存在せず、ゆるやかな連合体を形成している。カトリック教会においては教皇が教会の最高指導者であり、その下に枢機卿、大司教等の細分された位がある。
一方、宗教改革以降成立したプロテスタント諸教会には、万人祭司の教理から聖職者を設けず、教職として按手礼を受けた牧師をおくものが多い(牧師は「聖職者」とは位置づけられない)。教職の他に教会政治(管理)に長老、監督といった役職を置く事もある。
正教会、カトリック教会においては、女性は聖職者になることができない[36]が、聖公会、プロテスタントでは女性教職は珍しくない[37][38]。
現代では教派によらず、聖職・教職に就くには神学校等で数年の専門的訓練を受けるのが一般的である。
正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・一部のルーテル教会には神に生涯を捧げる信者がいる。これを修道者(修道士)という。修道者は必ずしも聖職者ではなく、多くは平信徒である。修道者は独身でなければならない。修道生活は3世紀ごろ、他宗教の先行例を模倣しつつエジプトで始まったと考えられている。元来は砂漠で一人行われることが多かったが、すでに古代に集団生活をする例が知られており、中世以降、修道院で行われることが普通である。カトリックにおいては、修道会という独自の組織があり、ローマ教皇に直属する。現代のカトリックでは、修道士・修道女はなんらかの修道会に所属している。どの教派においても、正式に修道者となるためには、数年の準備期間があり、十分な準備が出来たもののみが 修道生活に入る。準備段階、またまれに修道者となった後で、世俗の生活に戻るものもある。
[編集] 教会
一般的な教派では、信者はみなどこか特定の教会に所属している。これを教会員制という。欧米では洗礼記録により、必要に応じて信者であることの証明(洗礼証明書)を受けることが出来る。日本の教会では教会籍という制度で、洗礼による教会員の新規入会、転会、死去などを記録、管理する例が多い[39]。
教会員の多くは、居住地近隣の教会に所属するが、必ずしも自宅からもっとも近くの教会に属す義務があるわけではない。教会の規模はまちまちであり、日本では、都市部の巨大教会では、1万人を超える信者が所属するところもあり、地方の小教会では信者が10人前後の場合もある。
複数の教会を持つ教派では、管轄範囲を地理的区分によって分けることが多い。これを教区という。カトリック・正教会・聖公会など監督制教会の場合、教区の中心となるのは、主教座聖堂(司教座聖堂)である。教区にはいくつかの教会が所属する。一部教派では、教区はさらに教会を単位とする小教区に細分される。また、いくつかの教区をさらに統括する区分を設置する場合もある。複数の教会からなる教会(教派)に対し、ひとつの教会だけで一教派をなすものを単立教会という。単立教会は原理的にプロテスタントである。教義の近い単立教会が連合した協力組織も存在する。
信徒が転居などに伴い、同一教派の教会から他の教会に移籍すること(転会)も必要に応じて行われる。 これに対して、所属教派自体を変えることは、場合によっては宗教を変える(改宗)に等しいインパクトを持って受け取られる。カトリックでは自教派に改宗することを「帰一」、正教では「帰正」という。プロテスタント教会では多くは単に転会という。洗礼は大抵の教会間で他の教会のものも有効と認めるが、他の秘跡については認めないことが多い。聖餐の共有は聖餐理解が教派ごとに異なることを反映して複雑であり、本項では詳述しない。
!doctype>2012年5月10日木曜日
- 1: 忍法帖【Lv=28,xxxPT】 :2011/04/21(木) 01:16:56.70 ID:Pz3vVdq5O
-
ちなみに映画だと太陽の法 は普通に面白いよ、10回以上見ちゃった☆
- 4:哲学者フェンダー ◆Ana/D83C1M :2011/04/21(木) 01:20:12.03 ID:Ti0veFBeO
-
好きな声優は誰ですか
- 12:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:21:41.46 ID:Pz3vVdq5O
-
>>4
子安武人と銀河万丈の二枚看板は揺るがないと思われる
- 5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:20:45.32 ID:f1HEfy6L0
-
どういう経緯で入信した
- 15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:24:43.58 ID:Pz3vVdq5O
-
>>5
二世
- 7:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:20:54.54 ID:WoZaYxu80
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大川隆法のザーメン飲めますか?
- 15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:24:43.58 ID:Pz3vVdq5O
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>>7
お体に触れられるだけでもありがたい
- 8:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:21:02.24 ID:+o8X40Tg0
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やっぱ創価はライバル視してんの?
- 15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:24:43.58 ID:Pz3vVdq5O
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>>8
基本スタンスとしてはよその教祖はペテン師だけど生長の家みたいに友好関係のとこある
- 9:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:21:16.29 ID:/TZf5YyQ0
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なんでアニメあんなに金かけてんの?
- 27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:30:06.18 ID:Pz3vVdq5O
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>>9
布教活動の一環で、いきなり施設に連れて行くより映画の方が誘いやすいから
- 14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:22:06.13 ID:1fXayaOAi
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どんな活動してるの?
- 27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:30:06.18 ID:Pz3vVdq5O
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>>14
お茶のんで説法聞いてたまに観光地にある巨大施設に行く
- 16:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:25:08.65 ID:7Bg6B4RX0
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入信すれば仕事紹介してもらえますか?
- 32:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:33:59.71 ID:Pz3vVdq5O
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>>16
ない、主婦が多いし
- 17:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/04/21(木) 01:26:04.54 ID:DlbO0W1J0
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金がもらえないと信者になる意味はないな時は金なり
これ俺の思想
2012年5月8日火曜日
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1.安息日って?
1-1.一般の考え方
1-2.旧約聖書の教えでは?
1-3.パリサイ人の教えでは?
1-4.新約聖書の教えでは?
2.「なぜ安息日なのに、してはならないことをするのですか」
3.「ダビデとその連れの者たちが...」
4.「人の子は安息日にも主です」?
5.「イエスは...心のかたくななのを嘆きながら...」
6.神の安息に入るには...
僕たちは今、Epping に住んでいますが、そこに引っ越す前は Epping から南へ25キロほどのところにある Riverwood というところに住んでいました。
僕の勤め先は Epping のほぼとなりのサバーブの Marsfield というところです。
今では天気が良くて、体の調子も良くて、時間があって、さらに気が向いたときには:)歩いて通勤していますが、Riverwood に住んでいた時には25キロを車で片道40分から交通渋滞のひどいときには1時間半ほどかけて通っていました。
もっとも車の中で聖書を聴いたり──聖書を朗読したテープやCDが売っていますね──メッセージのテープを聴いたりすることができて、聖書を学ぶちょうど良い機会となっていました。
さて、あるとき Lane Cove Road を南へと車で向かっている時、左手に教会堂らしい建物があることに気がつきました。
教会堂らしいといっても古めかしいタイプの建物ではなくてモダンな、しかしそれでもなんだか教会堂らしいというような建物でした。
そして教会堂の外には道路からよく見えるように看板がおいてあって、よくアングリカンの教会堂でも見かけるのですが、目を引きやすい短いキャッチフレーズが掲げてあります。
例えば
「一度しか生まれないものは2度死ぬ、2度生まれたものは一度しか死なない。」
というような感じですね。
そこの教会では、こういうフレーズを掲げていました。
「イエスは土曜日に教会に行きました。だから私たちも土曜日に教会に行きます。」
僕は運転中にそのフレーズを読んだのですが、前の車が近づいているのに、思わずブレーキを踏み損ないそうになってしまいました。
まあ、事故にはならなかったのですが、後で調べたところ、そこはいわゆるセブンスデー・アドベンチストに属する教会だったようです。
僕はこのグループについては全然知らなかったのですが、セブンスデー・アドベンチストの日本語のウェブサイトで、彼らの信条を見てみました。
そこには「セブンスデー・アドベンチスト教団は『聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会』です」とありました。
私たちも聖書を基礎とする、キリストの教えに習う者たちですね。
なるほど、それなら私たちと同じ理解をしそうですが、セブンスデー・アドベンチストによると「教会は、聖書の教えに従い、週の第七日を安息日として遵守する」とありました。
週の第七日とはすなわち、土曜日のことです。
例えばもし世界中からランダムに旧約聖書と新約聖書を合わせた聖書は人のメッセージではなく、神が人に与えた神のメッセージだと信じます、という人を10人集めたとしたら、どうなるでしょうか。
おそらく十人が十人ともいろいろな細かなことについて、もしかしたら大きなことについても、他の人とは少しずつ違う解釈の仕方をしていると思います。
ですが、 それはなにも不思議なことではないと思います。
文化の違いによって、経験の違いによって、感じ方の違いによって、知識の違いによって、私たちは同じ言葉を与えられても、受け取り方、解釈の仕方が違ってしまうからです。
問題は、それでは違う解釈をしたときに、どうするか、ということです。
ある人たちは、聖霊が働いて違う人たちに違う解釈を与えたのだから、人それぞれが同じ言葉を受け取って、感じるように理解すればよい、と考えます。
しかし、聖書自体が、第一コリント人への手紙1章10節ですが、聖書を信じる人たちが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保つようにと教えています。
聖書は自分の好きなように解釈すればよい、ということは決してありません。
ペテロはパウロの書いた手紙について次のように言いました。
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。─このこと、とは「主の忍耐は救いである」ということです─その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
第二ペテロの手紙3章15節と16節(新改訳聖書)
「主の忍耐は救いである」とは、神が未だ審判の日をもたらしていないのは、まだ救われていない人たちを救うためです、ということです。
この箇所で ペテロはパウロが神から知恵を与えられて手紙を書いた事を認めています。
「その手紙の中には理解しにくいところもあります」と言われています。もし、 聖書の言葉が理解しにくい、と思ったら安心してください。どうやら 使徒ペテロでさえ、パウロの手紙──すなわち聖書の一部──には理解しにくいところがあることを言っています。
「 無知な」とは新共同訳聖書では「無学な」と訳されています。
すなわち、神の言葉を学ぼうとしない人たちのことです。
そのような人たちは、自分で学ぼうとせずに、ある一人の先生と呼ばれるような人が言ったことに同意したかと思えば、すぐに別の先生と呼ばれるような人が言った違うことに同意したりして、心が定まっていません。
結果、聖書の箇所を読んで、自分の好きなように解釈し、本当の神の教えを知ろうとせずに、自分自身に滅びを招いています。
聖書を読んで、神が本当にこの箇所でなにを言っているのか、自分の好きなように、ではなく、著者の意図していることはなんであるのかを理解しようと努めることは、聖書を神の言葉であると信じるすべての人たちに必要なことであると、僕は思います。
1.安息日って?
1−1.一般の考え方
!doctype>さて、週の初めの日は実は何曜日なのでしょうか?
一週間は実は日曜日から始まります。
週の第七日の安息日とは土曜日のことです。
正確には私たちが金曜日と呼んでいる日の日没から土曜日の日没までです。
なぜなら旧約聖書、そしてユダヤの人たちの一日は日没から始まり日没に終わるからです。
ところが多くの人は普通、安息日は日曜日のことだと考えています。
それは初期のクリスチャンたちが土曜日ではなくイエスの復活した日曜日に定期的に集まるようになったからです。
使徒のはたらき20章7節には弟子たちが週の初めの日、すなわち日曜日にパンを裂くために、すなわち私たちのいう聖餐式のために集まった、とあります。
安息日とは普通、一週間に一日、仕事をしないで休むことを意味しますが、その教えは考えてみれば素晴らしい教えです。
もちろん、偽ってはならない、殺してはならない、盗んではならない、というような教えも良い教えで、そのような教えを守ることは結局、自分の最善となることですが、安息日を守って、その日は仕事を止めて体を休めなさい、という教えはまさに直接、自分が安らいで憩うための教えに他なりません。
僕の父は─そしておそらく今でもそうだと思うのですが─大変な勤勉家でした。
毎朝、5時半に僕と弟は起こされて父と聖書の学びをしました。
朝食を終えて6時半にはもう家を出て、1時間半かけて仕事場へ向かいます。
夜帰ってくるのは10時頃だったと思います。
僕たちが小中学生の時には土曜日は家にいて文書の翻訳などの仕事をして、午後には2時間くらい卓球を一緒にしてくれるのが楽しみでしたが、僕たちが高校生のころは土曜日も職場にいたようです。
日曜日の朝はもちろん教会に行きますが、日曜の午後そのまま職場に行くことも少なくありませんでした。
もちろん、それだけ働いてくれた父がいたおかげで、食べる物も着る物も住むところも教育のための費用ももなんの心配もせずに十分に与えられて育ったわけですが、やはり一言、言わせていただけるなら、一週間に一日くらい全く仕事をせずに夫婦で、家族で、休める日があったらよかったのではと、今では思うのです。
2012年5月6日日曜日
長老派教会(ちょうろうはきょうかい、英語:Presbyterianism, Presbyterian Church)は、キリスト教のプロテスタント、カルヴァン派の教派。長老教会、長老派、日本以外の漢字圏では長老教とも訳される。
歴史の長いプロテスタントの一派。16世紀のスイスの宗教改革において、チューリヒのツヴィングリ派はブリンガーに引き継がれ、ジュネーヴのカルヴァン派との、チューリッヒ協定による改革派教会の合同が成立した際、教会制度はカルヴァンの長老制が採用された。カルヴァンは聖書の権威にしたがって、教会を治める「監督、長老、牧師」を区別しなかったと述べた。改革派の中心地は1520年から1560年にかけてチューリッヒからジュネーヴに移っていったと言われる[3] 。聖書によって改革され続けるという改革派の信仰は、ドイツ、フランス、オランダなどで広まったが、ジョン・ノックスによってスコットランドに伝えられ、この地で発展し、教会制度によって「長老派」(プレスビテリアン[Presbyterian])を名乗るようになる。ノックスは、『戒規の書(訓練、規律書)』で、長老制がジュネーヴからではなく、聖書から直接来たものであると明言している[4]。 1567年にスコットランドの国教となり、その後にフリー・チャーチが分離した。大陸の改革派とイギリスの長老派はそれぞれ信仰告白を整備し、準拠する信仰告白によって呼び分けられるようになる。ピューリタン(清教徒)のうちトマス・カートライトは国教会の監督制を否定し、長老制を主張した。長老派のウェストミンスター信仰告白は、1647年、スコットランド議会で採択され、1648年、英国議会でも採択された[5]。ニュージーランドにおいては主流的存在である。
ウェストミンスター基準に準拠せず、大会、中会、小会を持たなくても、「長老派」「長老教会」を標榜する例は、日本、韓国、台湾などに散見される。現時点での日本においてスコットランドにおけるがごとくの規模の長老会を持つ教会は存在しない [6]。
長老派は、聖書の「使徒行伝」(使徒の働き)14章23節、20章17節、「テトスへの手紙」1章5節に由来する。新約聖書が書かれたギリシア語の πρεσβύτερος(presbyteros プレスビュテロス) は、長老と言う意味である。
教父たちの間では、長老職(司祭とローマ教で言う)と司教(主教)職は同一視されており、時代が下るまで区別されなかった。長老たちが複数いるということは、教会政治の基準であるからである。[7]
教父ヒエロニムス(347年 - 420年)は、「テトスへの手紙」4章で、以下のように述べている。「長老というのは、主教と同一である。悪魔の影響によって党派が増える以前、教会は長老会によって、治められていた。」
教父ヨハネス・クリュソストモス(349年 - 407年)の"Homilia i, in Phil. i, 1"、キュロスのテオドレトス(393年 - 457年)の"Interpret ad. Phil. iii"も同じ意見を持っていた。
[編集] 系統概略図
[編集] 各地で発展した長老教会
[編集] スコットランドの長老教会
ジョン・ノックス(1505年 - 1572年)はジュネーヴでカルヴァンに学んだ。1560年に彼の作成した長老派のスコットランド信条はスコットランド議会に採択された。スコットランド信条は当時としては特筆すべきことに、キリストが唯一の頭であると告白している[8] 。ノックスはスコットランド教会の確立のために戦い、ローマ・カトリックの女王メアリーと対決した。
!doctype>2012年5月5日土曜日
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2012年5月3日木曜日
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͖\͗eFH xȎЉ^ƂBu킽́AӌdAΌ⍷ʂƐ킢A闧̂ĂȂƂ`ƂĂBv i^cł̏Ȃj |
~邽߂̏ ǂ~邩Ƃ₢ɑāA{`҂͓BuWiqrujgȂƂłBv iAX^[E}OXicjwLXg̏ƕ`x̂̂ƂΎЁA1995A162Łj |
Ȃqtɂ͏펯͂̐l qtɂ͏펯͂ꂽlƓvĂMkAvāAqtɂ˂Ă݂Bu搶AǂĖqtɂ͏펯͂̐l̂łHv iT߂炵j |
ȂlԂ͍ߐ[̂ |
2012年5月2日水曜日
天と地
これからイエスが弟子たちに教えた祈りを中心にイエスの福音の主なところを紹介していきたいと思います。
マタイ福音書の中にイエスが語った「山上の説教」(マタイ 5, 6,7章) がありますが、それを読むと明らかなように、イエスが説いた「天の国」(「いのちの王国」、「神が望まれる世界」、「愛と平和の国」とも置き換えられます)とは日常の中に発見されます。天の国を信じるとは、この地上に天国を発見することです。物事のうわべを越えて、その奥にある何ものかを見る目を育てることです。
さらに、天の国を信じるとは、隣の人と肩を組んで、この地上で天の国を作ろうとすることでもあります。
では、天の国を発見する目は、どのようにしたら養われるのでしょうか。この地上で天の国を築き上げる力をどこから得ることが出来るのでしょうか。その秘訣はイエスが教えてくださった「天の父」です。
今ここで、「山上の説教」で示されたイエスの教えの中核を簡単に述べて見ます。それは次の三点にまとめられます。
イ)天の父がおられること、
ロ)われわれ皆が兄弟姉妹であること、すなわち人間は皆「身内の者」になっており、「よそ者」と言える者は誰一人いないこと、
ハ)この地上で天の国を発見しながら、それを一緒に作っていくこと、の三点です。
私はこの節に「天と地」という小見出しを付けました。それは読者がイエスの教えてくださった「主の祈り」を自分の言葉に置き換え、それぞれの日常生活の中で口にし、天の父へと心を向け、日々天の国を発見する目と、天の国を築いて行く力を得られるようになることを願っているからです。
主の祈り
ある日のこと、弟子たちがイエスに、「どのようにして祈ればよいのでしょうか。」と尋ねました。イエスは答えました。「長い時間をかける必要はない。オウム返しのように祈ることもしないで欲しい。ただ素直に天の父に心を向けなさい。例えば、次のように祈りなさい。『天におられる父よ、私たちの父よ、み名があがめられますように。み国が来ますように。み心が行われますように。地にも天にもそうでありますように。私たちに、今日もこの日の糧をお与えください。私たちの負い目をおゆるしください。私たちもそのように人々をゆるすことができますように。試みに負けないように私たちを助け、悪からお救いください』と。(マタイ6,9-13;ルカ11,2-4参照)。
この言葉は何世紀にもわたり、キリスト者の最も大事な祈りとして大切にされてきました。それは日本語で「主の祈り」、(以前は「主祷文」)と呼ばれています。
ここに載せた祈りの言葉は、実は、分かりやすく訳したものです。
次に、カトリック教会の感謝の集い「ミサ」の中で唱えられる「主の祈り」を以下にのせておきます。
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。アーメン
この文にはもちろん難しい点もあり、初めて聞くと首をかしげるところもあるかもしれません。しかし、よく祈られているものなので、まずその祈りの言葉を用いて説明をしてから、私なりの言葉に置き換えたいと思います。短いこの祈りの一語一語には深い意味があります。それをゆっくり味わいながら、唱えるようにしたいものです。
教父アウグスティヌスは、「書物はすべて焼いてもよい。ただ『主の祈り』と、『信仰告白』さえあればよい」と言っています。またミサの中で、この祈りが「いのちのパン」をいただく前の重要な箇所で唱えられることにも注意しましょう。
天におられる父よ
「天におられる父よ」と言うときに一体そのような呼び方をされる神はどこにおられるというのでしょうか。そしてまた、父という呼び方は何を意味するのでしょうか。まず、この二点を明らかにしましょう。
「天におられる」というのは決して、ある芸術作品に見られるような、神様が空の雲の上で羽衣の天使たちに囲まれて座っていらっしゃるということではありません。それよりもむしろ、神は私の心の中にも、「あなた」の心の中にもおられる方であり、すべてのものの中にも、いやすべてのものを包みながらどこにでもおられる方である、と言ったほうが適切でしょう。
二点目は、この祈りの初めで神のことが「天の父」と呼ばれており、ここで「神」という言葉が使われていないことにも意味があります。神のほうに心を向けて祈り始めるとき、「神よ」とではなく「天の父よ」と呼びかけるのです。そう呼ぶことによって、神のことを身近な方、近づき易い方として感じることができます。(ヘブライ語ではアッバ、スペイン語などではパパと言います。)
イエスが説く神は、漠然とした抽象的な神でもなければ、神話に出てくるような神々ともまた違います。イエスが教えてくれた神は私たちが「天の父」と呼ぶことのできる方なのです。
次に、「父」という言葉が、われわれの心にどのようなイメージを思い浮かばせるかを問わなければならないでしょう。なぜかと言えば、人が神というときに浮かんでくるイメージによって、神の捉え方も神との関わり方も変わってくるからです。
「主の祈り」で言う「天の父」は「地上のお父さん」に対して「天のお父さん」である、と字義通りに説明しても十分ではありません。また、優しい母に対比される厳しい父でもありません。それは母のイメージと父のイメージの両方を含むと同時に、創造主であるという意味も含みます。母であり、父である「天の父」は私たちを生かし、導き、受け入れ、愛してくださる方という豊かな意味を持つ言葉です。「天の父」や「天の母」と呼んでもよいし、昔風の中国語や日本語で呼ばれたように、「天主」と呼んでもよいでしょう。
ここで二つの誤解を避ける必要があります。一つ目は、父を恐ろしい存在として捉えることであり、二つ目は、母を甘えるだけの象徴として捉えることです。ここで言う父とは、人間が持っている父親と母親のイメージを含むと同時に、両方をはるかに越える父としての神、母としての神、いのちの源としての神なのです。
神がすべての人の父であるということと、神に向かって「父よ」と呼びかけることが出来ることは、イエスが教えてくださったことです。この意味で私たちが神に向かって「父よ」と呼びかけるとき、私たちはイエスと共に、イエスによって、イエスのうちにあって、「父よ」と言います。言い換えれば、私たちの側におられるイエスと共に神を求め、私たちの前に道を歩まれたイエスによって神のほうに歩み続け、私たちのうちにおられるイエスと一致して、神に向かって「父よ」と祈るのです。
そして、私たちはこの祈りを、ある時には天を仰ぎながら唱え、ある時には目を閉じて唱えます。天を仰ぐときには、すべてを越える方としての神に心を向け、目を閉じるときには、自分と、万物の根底におられる方としての神に心を向けていると言えるのではないでしょうか。
以上のことから、この祈りを決して美化された甘美なものとしてとらえてはならないことがわかります。むしろ、私たちの日常生活に密着した祈りになりうるのです。日常生活の中には明るいときもあれば暗い時もあり、またこれという明るさも暗さもない単調な日々もあるのです。そこで、あかるい時に感謝し、つらいときに助けを求め、そして、起伏のない平坦な日々の、これという喜びも苦しみもないときにも、私たちは天の父によって生かされていることに気づくと、日常生活の中で湧き上がる祈り方ができるようになります。
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