2012年5月2日水曜日

イエスが教えた祈り | Juan Masiá Clavel のサイト


  天と地

 これからイエスが弟子たちに教えた祈りを中心にイエスの福音の主なところを紹介していきたいと思います。

マタイ福音書の中にイエスが語った「山上の説教」(マタイ 5, 6,7章) がありますが、それを読むと明らかなように、イエスが説いた「天の国」(「いのちの王国」、「神が望まれる世界」、「愛と平和の国」とも置き換えられます)とは日常の中に発見されます。天の国を信じるとは、この地上に天国を発見することです。物事のうわべを越えて、その奥にある何ものかを見る目を育てることです。

さらに、天の国を信じるとは、隣の人と肩を組んで、この地上で天の国を作ろうとすることでもあります。

では、天の国を発見する目は、どのようにしたら養われるのでしょうか。この地上で天の国を築き上げる力をどこから得ることが出来るのでしょうか。その秘訣はイエスが教えてくださった「天の父」です。

今ここで、「山上の説教」で示されたイエスの教えの中核を簡単に述べて見ます。それは次の三点にまとめられます。

イ)天の父がおられること、

ロ)われわれ皆が兄弟姉妹であること、すなわち人間は皆「身内の者」になっており、「よそ者」と言える者は誰一人いないこと、

ハ)この地上で天の国を発見しながら、それを一緒に作っていくこと、の三点です。

私はこの節に「天と地」という小見出しを付けました。それは読者がイエスの教えてくださった「主の祈り」を自分の言葉に置き換え、それぞれの日常生活の中で口にし、天の父へと心を向け、日々天の国を発見する目と、天の国を築いて行く力を得られるようになることを願っているからです。

主の祈り

ある日のこと、弟子たちがイエスに、「どのようにして祈ればよいのでしょうか。」と尋ねました。イエスは答えました。「長い時間をかける必要はない。オウム返しのように祈ることもしないで欲しい。ただ素直に天の父に心を向けなさい。例えば、次のように祈りなさい。『天におられる父よ、私たちの父よ、み名があがめられますように。み国が来ますように。み心が行われますように。地にも天にもそうでありますように。私たちに、今日もこの日の糧をお与えください。私たちの負い目をおゆるしください。私たちもそのように人々をゆるすことができますように。試みに負けないように私たちを助け、悪からお救いください』と。(マタイ6,9-13;ルカ11,2-4参照)。

この言葉は何世紀にもわたり、キリスト者の最も大事な祈りとして大切にされてきました。それは日本語で「主の祈り」、(以前は「主祷文」)と呼ばれています。

ここに載せた祈りの言葉は、実は、分かりやすく訳したものです。

次に、カトリック教会の感謝の集い「ミサ」の中で唱えられる「主の祈り」を以下にのせておきます。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり、

地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。

わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。アーメン

この文にはもちろん難しい点もあり、初めて聞くと首をかしげるところもあるかもしれません。しかし、よく祈られているものなので、まずその祈りの言葉を用いて説明をしてから、私なりの言葉に置き換えたいと思います。短いこの祈りの一語一語には深い意味があります。それをゆっくり味わいながら、唱えるようにしたいものです。

教父アウグスティヌスは、「書物はすべて焼いてもよい。ただ『主の祈り』と、『信仰告白』さえあればよい」と言っています。またミサの中で、この祈りが「いのちのパン」をいただく前の重要な箇所で唱えられることにも注意しましょう。

 

天におられる父よ

「天におられる父よ」と言うときに一体そのような呼び方をされる神はどこにおられるというのでしょうか。そしてまた、父という呼び方は何を意味するのでしょうか。まず、この二点を明らかにしましょう。

「天におられる」というのは決して、ある芸術作品に見られるような、神様が空の雲の上で羽衣の天使たちに囲まれて座っていらっしゃるということではありません。それよりもむしろ、神は私の心の中にも、「あなた」の心の中にもおられる方であり、すべてのものの中にも、いやすべてのものを包みながらどこにでもおられる方である、と言ったほうが適切でしょう。

二点目は、この祈りの初めで神のことが「天の父」と呼ばれており、ここで「神」という言葉が使われていないことにも意味があります。神のほうに心を向けて祈り始めるとき、「神よ」とではなく「天の父よ」と呼びかけるのです。そう呼ぶことによって、神のことを身近な方、近づき易い方として感じることができます。(ヘブライ語ではアッバ、スペイン語などではパパと言います。)

イエスが説く神は、漠然とした抽象的な神でもなければ、神話に出てくるような神々ともまた違います。イエスが教えてくれた神は私たちが「天の父」と呼ぶことのできる方なのです。

次に、「父」という言葉が、われわれの心にどのようなイメージを思い浮かばせるかを問わなければならないでしょう。なぜかと言えば、人が神というときに浮かんでくるイメージによって、神の捉え方も神との関わり方も変わってくるからです。

「主の祈り」で言う「天の父」は「地上のお父さん」に対して「天のお父さん」である、と字義通りに説明しても十分ではありません。また、優しい母に対比される厳しい父でもありません。それは母のイメージと父のイメージの両方を含むと同時に、創造主であるという意味も含みます。母であり、父である「天の父」は私たちを生かし、導き、受け入れ、愛してくださる方という豊かな意味を持つ言葉です。「天の父」や「天の母」と呼んでもよいし、昔風の中国語や日本語で呼ばれたように、「天主」と呼んでもよいでしょう。

ここで二つの誤解を避ける必要があります。一つ目は、父を恐ろしい存在として捉えることであり、二つ目は、母を甘えるだけの象徴として捉えることです。ここで言う父とは、人間が持っている父親と母親のイメージを含むと同時に、両方をはるかに越える父としての神、母としての神、いのちの源としての神なのです。

神がすべての人の父であるということと、神に向かって「父よ」と呼びかけることが出来ることは、イエスが教えてくださったことです。この意味で私たちが神に向かって「父よ」と呼びかけるとき、私たちはイエスと共に、イエスによって、イエスのうちにあって、「父よ」と言います。言い換えれば、私たちの側におられるイエスと共に神を求め、私たちの前に道を歩まれたイエスによって神のほうに歩み続け、私たちのうちにおられるイエスと一致して、神に向かって「父よ」と祈るのです。

そして、私たちはこの祈りを、ある時には天を仰ぎながら唱え、ある時には目を閉じて唱えます。天を仰ぐときには、すべてを越える方としての神に心を向け、目を閉じるときには、自分と、万物の根底におられる方としての神に心を向けていると言えるのではないでしょうか。

以上のことから、この祈りを決して美化された甘美なものとしてとらえてはならないことがわかります。むしろ、私たちの日常生活に密着した祈りになりうるのです。日常生活の中には明るいときもあれば暗い時もあり、またこれという明るさも暗さもない単調な日々もあるのです。そこで、あかるい時に感謝し、つらいときに助けを求め、そして、起伏のない平坦な日々の、これという喜びも苦しみもないときにも、私たちは天の父によって生かされていることに気づくと、日常生活の中で湧き上がる祈り方ができるようになります。


hannakahは何ですか?

もちろん嬉しい時には、何でも自分の力によってできると思わないよにしたいでしょう。また悲しい時には、神に向かって率直に、「父よ、どうしてこういう時に限って、こういうことがあるのでしょうか」と祈ってもよいのです。こういった日常生活の中で、信頼と感謝のこもった祈りを唱えるように心がけるためには「主の祈り」が大きな助けとなります。

とにかくここで強調したいのは、神が父であることについて話すということよりも、父としての神に祈れるということのほうが、大事であるということです。神を父として見出し始めた者は、神を探し求めながら、「父よ」と祈り続けます。

ここで「見い出しはじめた」とか「探し求める」とか「祈り続ける」とかいうような言い回しを意図的に使いましたが、私たちは神を見たから祈るのではありません。逆に、神のほうから見られていると信じながら、なかなか知り尽くすことのできない神に近付こうとするのです。言い換えれば、私たちは神を理解し尽くしてから祈るのではなく、いずれ分かるようにと願い、イエスが教えてくださった神が、とにかく近付きがたい神ではないと信じて、「父よ」と呼んで、探し続けるのです。

そのために、「主の祈り」の中で「神」という言葉が出て来ないということに気を付けたいのです。先ほど強調したように、私たちの祈りの対象は、漠然とした神でも、単なる抽象的な絶対者だけでもありません。また、神話の中に出てくる神々のような者でもなく、「父」(お父さん、お母さん)と呼ばれる方なのです。

では、ここで聖書の言葉を読みましょう。

「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であるならば、神によって定められた相続人でもあります」(ガラテヤ書4,7)。

「このキリストに結ばれた私たちは、キリストを信じることによって、臆することなく、確信をもって歩みを進めることができるのです」(エペソ書 3,12)

またヨハネ福音書(1,18)で述べられているように、神を見たものは誰もいません。信仰者とは、神を見た人々ではなく、天の父の懐におられるイエスが神のことを説き明かしたイエスの言葉を信じ、その言葉に導かれて、神を探し求め続けている人々だと言えます。

要するに、信じるということは、この真実に目覚めたり、気付いたりすることであり、神の呼びかけに対して「聞く耳」を持ち始めることです。あるいは聖書で言われているように、肉眼では見えないことを心の目で見ることができるようになるということです。

もうひとつ、エペソ書(1,18-19)の言葉を思い出しましょう。

「あなたがたの心の目が照らされて、神の招きに伴う希望がどのようなものであるかをあなたがたが知ることができるように祈っています」。

ところで、心の目について述べましたが、聖書の言う「聞く耳」も大切です。最近、電車の中で、携帯電話で話したりヘッド・フォンで音楽を聞いたりしている人々の姿をよく見かけます。その人々は、周囲の雑音で聞きづらいことも多いでしょう。私たちも日常生活の中の雑音に戸惑わされて、天の父に耳を傾けることのできないときがあります。もしかすると、神に耳を傾けられない人は、人々の言うことも聞いていなのかもしれません。あるいは、その逆に神の言葉に耳を傾けて、はじめて人々の言うことが聞けるようになることもあるでしょう。

母親は子供が泣く前に目を覚ますことがあり、相当な聞く能力を持っています。私たちは神の言葉を聞く能力を失いかけているかもしれないのですが、それを取り戻す必要があるでしょう。

無邪気な子供の目は、母親の顔を映し、天を映し、いわば神の顔を映しています。成長して行くにつれて、鏡のようなその目が曇ってきます。私たちはあるときには背伸びをし、あるときには自己卑下をします。あるときにはすきを見せまいとして自己防衛の鎧を身につけ、人間関係の中で身がまえます。あるときには優越感に浸り、あるときには劣等感を抱きます。あるときには自分について人が何を考えているかを気にし、あるときには特定の印象を与えようとして気を遣います。

しかし、天の父は、私たちのありのままを見ておられます。天の父のみ前にいる私たちは、自分をありのままに位置づけられていますから、ありのままの自分を見ることができるようになります。

ですから、天の父のみ前で祈るとき、各自の年齢とその人が置かれている状況に相応しい祈りが湧き起こってくるのです。なぜなら、天の父のみ前では、背伸びすることも自己卑下することも必要ではないからです。

そして不思議なことに、わたしたちを一番ありのままに見ておられる天の父が、わたしたちを一番受け入れてくださっているのです。

天におられる。

先に述べたように、この言葉の「天」は雲の上ではなく、神がすべてを満たすものであることを表します。夜になると、地上のあらゆるところから同じ星を見ることができるのと同様に、「天」というイメージは、神がどこにでもおられるということと、私たちにとって神は知り尽くすことのできない方であるということを表しています。

神が天におられるということは、裏返して言えば、神がおられるところ、どこでもが天になっているということです。

したがって、神を求めて遠い天国へと旅立つ必要はありません。なぜなら、今、ここに神がおられ、天国はここにもあるからです。聖アウグスティヌスも「自分は長いあいだ神を探し求めてきたが、神は自分に一番近い所におられることにやっと気がついた」と言うのです。

素朴な見方をすれば、天は空の雲の上になります。神を信じないと言っていた宇宙飛行士は、「こんなに上まで飛んで来ても神なんか見当らない」と言ったそうです。それとは対照的に、もう一人の宇宙飛行士は神を信じていたので、空の上から星空を観察しながら神を賛美していたそうです。しかし、最も印象深かったのは三人目の宇宙飛行士の話でした。彼は遠くから地球を眺め、広大な星空に圧倒されて、ふと思ったそうです。「ここまで昇って来て、神様はどこにおられるのだろうかと思ったが、そのとき自分のそばで居眠りをしているもう一人の宇宙飛行士の鼾を聞き、急にそこに神がおられることに気づいた」と言っているのです。

またチベットの熊の譬え話もあります。熊はあるとき、何か、いい香りがするのに気付き、それがどこから流れて来るのか、あたりを捜し回りますが、見当たりません。ある日のこと、山の中を駆け回って、イバラで胸を傷つけ、治そうとして胸をなめた熊は、その香りがその傷のところから出ているのに気付きました。香りは、自分に一番近い所から出ていたのです。(熊の胸部には、芳香のある油袋があるらしい)。

神は、多くの人が気付かずにいるところに、人間に一番近いところにおられるのです。このことを実感しながら「天におられる父よ」と祈りたいのです。

 私たちの父よ

この祈りの言葉の呼びかけが複数であることを見逃さないようにしましょう。「私の父よ」とではなく、「私たちの父よ」と祈ります。私たちは天の父がいると信じている人々の中に身を置いてこの祈りを唱えるのであって、この祈りを個人的な祈りに終わらせてしまわないように注意しましょう。

さらに、「私たち」とは、決して信仰者のことだけを指しているのではなく、兄弟姉妹であるすべての人々を指す人類共同体のことですです。天の父がおられることを聞いたことのない人々もみな私たちの兄弟姉妹であることを思い、すべての人のことを天の父に任せて祈りましょう。

また前述のように、この祈りにおける「父」とは、父親と母親の両方のイメージをもっていますので、この「父」という言葉は父親と母親の優れた点を象徴し、私たちの考えがちな狭い意味での父や母を遙かに越える方を指す言葉として使われています。この父は、恐るべき厳しい父でもなければ、甘やかすだけの母でもありません。いや、むしろすべての源であり、誠の愛の泉であり、全ての兄弟姉妹を一つに結びつけることを望む方なのです。

そして、天の父はなかなか兄弟姉妹として一つになれない私たちをそうなるように助けてくださる方です。というのは、天の父は私たちを弱さから解放するだけでなく、私たちの「強さを強さたらしめる」方だからです。


ペンテコステは何ですか?

聖書では古来「神は神を信じる正しい人たちの父」と言われてきました。また、私たちの父であるとイエスが教えてくださった神は、マタイ5,45で言われているように、善人の上にも悪人の上にも雨を降らせ、太陽の日差しを送ってくださる方です。

そのような神に向かって私たちは、恐れの気持ちからではなく、子供のような信頼をもって、「父よ」と祈るのです。「あなたがたは、人を再び恐れにおちいらせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」(ローマ書8,15)。それで、私たちはイエスと声を合わせて、この祈りを唱えるのです。

イエスは厳密な意味での神の子として「父よ」と言われますが、私たちはイエスと一致して始めて、父なる神に向かって「父よ」と言えるのです。このように祈ると、私たちの祈りはイエスの祈りの「こだま」となります。父に向かって「私たちの父よ」と祈る私たちは、互いに兄弟姉妹です。

ここでマタイ23,9の言葉を思い出しましょう。「あなたたちは、地上で何者をも〈父〉と呼ぶな。あなたたちの父はただ一人、天の父のみだからです」。

ここまで進んだ時点で、ヨハネ第一の手紙の初めのことばを思い浮かべたいのです。その言葉も、キリスト者の信仰を一人称の複数で表しています。

「はじめからあったもの、

また、私たちが聞き、

目で見、見つめ、

手でふれたいのちのことばについて、

あなたがたに伝えます。

いのちは現れました。

私たちは永遠のいのちを見ました。

それをあなたがたに証し、伝えます。

このいのちはおん父とともにあり、

私たちに現れました。

私たちが見たこと、聞いたことを

あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたも私たちと、

交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、私たちが、

父とその子イエス・キリストと交わることです」(1ヨハネ1,1-3

この聖書の言葉の中で「父」とは、

イ)いのちを与える方、

ロ)私たちを導いて来られた方、

ハ)今、私たちを支え、受け入れてくださる方、絶対に信頼できる方です。母親がたとえ子を忘れたとしても、神が私たちを忘れることはありえないのです。

 「おられる」とは何か

 ここまで「天におられる私たちの父よ」という「主の祈り」の冒頭の言葉を噛み砕いてきて、「天」について、「父」について、「私たち」について考えてきました。そこで残るのは「おられる」という言葉です。

日本語では「本がある」とか「人や動物がいる」と言います。私の母国語スペイン語にはser(~であること)、estar(~いること)、existir(~があること)という使い分けがあります。日本語を勉強するとき、敬語の難しさに困ります。神についてなんと言いましょうか。「いる」とか「いらっしゃる」とか「おいでになる」などの言葉がありますが、戸惑います。

実は西洋の古代や中世時代の思想家たちは「神がおられる」ということについて人間が語りうるのだろうかという問題に悩まされました。神について「こうである」とか「ああである」とか、言っても、また「そうでない」とつけ加えなければならないのではないかと彼らは気付きました。いや、「ある」という言葉さえも適切ではないとまで言われました。

東洋では「無」とか「空」というふうにサンスクリットのsunyataを訳して昔から大乗仏教において深い信仰が表されてきました。今ここで複雑な宗教学を展開するつもりはないのですが、『般若心経』になじんでいる人には西洋の神秘家たちが述べた『否定神学』がわかりやすいでしょう。

とにかく、今ここで強調したいのは「天におられる父よ」というときに「おられる」という言葉が特別な意味合いを含むことです。つまり神は、決して「ここ」とか「あそこ」と指で指すことができるような形で「おられる」ということではなく、むしろすべてのものをつつみながら「どこにでもおられるから」こそ「どこにもいない」すなわち「限り」のある存在ではないと言えるわけです。

み名が聖とされますように。

古い訳では「み名の尊まれんことを」、と言われていました。「み名」は神に向かって「あなた」と言うことを表した言葉です。従って、「あなたが褒め称えられれますように」、「賛美されますように」。ということで「聖とされますように」は直訳で、意訳すれば、「あなただけが聖なるものとして認められ、聖なるものとして拝まれますように」ということです。

つまり、この句は「賛美します」、「感謝します」、「拝みます」ということが要点で、これは感謝と賛美する心、拝む心を表わしている言葉です。

祈りには喜びの歌のようなものもあれば、嘆きの歌のようなものもあります。場合によって、それは朝の祈りと夕の祈りの雰囲気にあたるでしょう。朝、感謝と喜びと賛美の心をもって、元気に一日を始めるときには、心から「み名があがめたたえられますように」、「み名が聖とされますように」と祈れるときがあるでしょう。それに対して夕方には、一日の生活の重みを背負いながら、自分の「弱さの深淵」から、「主よ、助けて下さい」、なかなか来ないように見える「み国がきますように」と嘆き祈るときもあるでしょう。

身振りで祈りを表すことがあります。手を合わせて祈ることもあれば、開いた手を上に向けて祈ることもあります。「み名が聖とされますように」と祈るときには、どちらかと言えば手を開いて天の方へ心と体を向けるような姿勢がふさわしいようです。毎朝この賛美の心を呼び起こしたいものです。

人間の定義にはいろいろありますが、「人間は祈る動物である」というのが、人間の最もふさわしい定義の一つではないでしょうか。後にこの「主の祈り」の中で、パンのために、ゆるしのために、そして悪から救われるために祈りますが、今こうした願いごとの祈りに先だって、賛美の祈りを唱えます。

詩篇8611-12)の言葉を私たちの言葉として唱え、「み名あがめられますように」という文の意味を深めたいと思います。その詩篇で、「主よ、私は昼も夜もあなたを呼び求めます。主よ、私はあなたに心を向けます」と言われています。祈るとは結局、そのことです。賛美と感謝の心をもって神のほうへ心を向けることです。

先ほど述べたように、あるときには天を仰いで神の方へ心を向け、あるときには目を閉じて自分の内面におられる神の中へ沈んでいきます。キリストの霊は私たちのうちに生きており、働いておられます。つまり、このことに気づくことが、信仰であり、祈りなのです。信じることも、祈ることも、「気付くこと」です。いつでもどこでも神の現存に気付くことです。

「私はいつもあなた方と一緒にいる」(マタイ28,20)というイエスの言葉が思い出されます。いつも側におられるその方と話し、その言葉に耳を傾けることは祈りです。しかし話すといっても、多くの言葉を用いる必要はありません。大切なのは、賛美する心、感謝する心、そしてとりわけ聞く心の耳です。色々なことに気を散らすことなく、沈黙のうちに神に聞く術を学びたいものです。

悩みの中にあるときに祈りが生まれるのは当然です。しかし、順境のときにも同じように祈るようにしたいのです。そして、日常の平静な気持ちのときに、神に向かって「父よ」と信頼のこもった祈りができるようになればありがたいです。普通の時に精神を集中させて祈ることができれば、自ずと感謝の念が生じ、信じさせてくださるのは神ご自身であることに気付くでしょう。

 

み国が来ますように。


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「み名が聖とされますように。み国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りは、すべての人が、天の父のもとで一つになるときが来ますようにという願いを表しています。ここに出て来る「天」と「地」は、先ほど述べた三つの願いにかかっているので、次のように訳すこともできます。「地でも、天におけるようにみ名があがめられますように。地にも、天におけるようにみ国がきますように。地にも天におけると同じようにみ心が行われますように」と。言い換えれば、「この地上が天の国になっていきますように」、という祈りです。

それで、「主の祈り」のこの部分を簡単に、「すべての人が、すべてのものが、一つになる日がきますように」というふうに言葉を置き換えて表すことができます。

これとは対照的に、「この世を忘れて天国を仰ごう」という歌がありますが、これでは「宗教は阿片である」と言われても仕方がないでしょう。真の宗教は麻薬であるはずがありません。私たちは今、天の国をこの世で作ろうと努力するのです。そして、いくら努力しても作りきれなくても、「いつかその日がきますように」と祈り続けるのです。

「天の国」、「神の国」という言葉を理解するために、この言い回しを逆にしてみましょう。神の国を「国の神」としてみるのです。イスラエルでも、祖国のために戦う人々は、神が自分たちの側にいると思いこんでいたことがありました。やはり「神風」のような考え方はいろいろな文化や時代にあったのです。

それに対してイエスの説いた神は、いわゆる「われわれの国の神」ではなく、「すべての国々の神」です。イエスは当時の狭い考え方から来る「国の神」というナショナリズムの代わりに、「神の国」を打ち出します。その国はあらゆる国境を越え、すべての垣根とへだたりを超越する広いものです。

「み国がきますように」とは、自分と自分自身との間の壁、自分と他人との間の壁、自分と物事との間の壁、自分と神との間の壁、これらすべての壁、分け隔て、垣根がなくなりますようにということです。すべてが一つになる日がきますようにということです。

しかし、世の中の現状をみると、そうならないのが普通です。昔から人々は理想的な世界を夢見てきました。そうした理想の国はユ-トピアと呼ばれます。それはギリシャ語の語源に由来します。トポスは場所、ユは否定。ユ-トピアはどこにもないような場所です。どこにも実現されないようなことを目指すのは一つの逃避になってしまうことにもなりかねないのですが、同時に人間は夢を持たなければ現状を変えて行くための力が湧いてこないのです。多くの宗教において天国や浄土や涅槃などといったような理想的な世界が描かれています。

彼岸を目指して此岸を無視することが宗教の特徴だと思い込んでいる人は少なくないし、キリスト者の中にも「天の国」のことは単なる「死後の世界」の話としてしか受け止めていない信徒も遺憾ながらいます。いや、神学者の中にも、「象牙の塔」に閉じこもるせいか、そのように考えてしまう学者さえもいるのです。そうした立場で神学に携わった場合、現実世界から逃避して、社会の建設に対して無関心で、思弁だけを巡らすことに終わってしまうことも希ではないのです。

しかし、それではイエスが教えてくださった「み国が来ますように」という祈りの意味を誤解することになります。亡くなる前夜に「この世の中にいながらこの世のものではない」(ヨハネ17,15-18)と言う言葉を弟子に言い残したイエスは、決して「この世を忘れて天国を仰ぐように」とおっしゃったのではありません。むしろ「天の国を待ち望みながら、今この世で天の国を築き上げていくように」と教えられたのです。

「あの世」のほうに逃避すれば、信仰は阿片になってしまいます。そして、「この世」に流されてしまえば、「世の塩」(マタイ、5,13)が味を失います。そこで、「彼岸」と「此岸」の狭間で緊張感を保つ必要があるでしょう。

したがって、「天の国」という比喩的な言い方を、私たちはどのように受け止めたらよいのか確かめたほうがよいいでしょう。

ここで、使徒言行録を思い出しましょう。「そこで、集まっていた使徒たちが、<主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、今ですか>と尋ねた」(使徒1,6)この箇所からわかるように、弟子たちはまだ、この世の権力とナショナリズムに囚われていました。ここで弟子たちは、この世からの逃避と言う誘惑に陥っています。何百年もの間、教会の中には、世俗化への傾向と厭世的な傾向という二つの極端が、度々見られました。しかしイエスが説いた天の国は、「この世にありながら、この世のものではない」という性格を帯びています。使徒1,7でイエスはユーモアをもって弟子たちに答えます。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、お前たちの知るところでは� ��い」と。

その後、彼らはだんだん理解し始めました。しかし時間がかかったのです。その長い過程は、使徒言行録1章から15章までの部分に表れています。開かれた共同体になかなかなりきれないという悩みが、当時の教会にすでにあったのです。神の国を理解せずに、いわば「国の神」に憧れる傾向が強く見られたのです。15章に記録されているエルサレム会議で、重大な転換が行われます。教会は公式に、諸民族へと開かれます。これからは、狭い意味での「国の神」ではなく、広い意味の「神が支配する国、神が望む兄弟姉妹の共同体」を、弟子たちが全世界に伝えて行くでしょう。

しかし、いつの時代においても、誤った救済観(個人的・精神的・彼岸的な救いの捉え方)と誤った教会観(いわゆる「信心派」対「社会派」の対立)が見られました。歴史を振り返りますと、信仰者の共同体と、この世の権力者たちとの関係は必ずしもいつも福音に基づいたものではなかったのです。

ときには、信仰者たちは政治や経済社会の諸問題に対してあまりにも無関心であったり、逃避や阿片と非難されても仕方がない信仰の持ち方を示しました。もちろん、福音の実践に関わり、そのために迫害を受けた時もありました。 場合によって 無批判的に権力者たちと妥協したり、利用されたりしたことがありましたし、教会のほうが権力者になってしまった場合もありました。逆に、福音に忠実であろうとして妥協することなく、社会建設のためにパン種になった場合もあります。とにかく、教会と権力者、宗教と政治、信仰者と社会問題などを考える場合、物差しとなるのは前述したイエスの言葉「あなたがたはこの世にありながらこの世の者ではない」という言葉です。この言葉に照らして 「み国が来ますように」という祈りが理解されます。つまり、イエスは「天の国」がすでに近づきつつあると言うことに気付くように私たちを目覚めさせると同時に、天の国の実現のために、この世で努めるように勧めておられるということです。

みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

先に賛美と嘆きという二つの祈り方を朝の祈りと夕の祈りにたとえて、前者は「み名の尊まれんことを」という祈りで、後者は「み国の来たらんことを」という祈りで表わされていると述べました。ところで、これという感激もなく、特別に嘆きもないような祈り方もあります。「み旨の行われんことを」という祈りがそれです。

それは英雄的でもなければ、悲劇的でもない信仰の持ち方とつながります。天候にたとえると、それは晴れでも大雨でもなく、曇った空に当たるかもしれません。そうしたときにこそ、真の祈り方があるのかもしれません。イエスの死を見るとき、すべてが無意味ではないかと言いたくなるかもしれません。それでもなお、神に信頼して祈るのです。運命論ではありません。神のみ心は、どのような形で行われるのか、人間には分からないのです。神のみ心は人間の理解できない形で行われるのです。

詩篇139に次のように述べられています。

主よ、あなたは私をさぐり、

私を知り尽くされました。

あなたは私が座るのも、立つのも知り、

遠くから私の思いをわきまえられます。

あなたは私が歩むのも、伏すのも探り出し、

私の諸々の道をことごとく知っておられます。

あなたは後からも、前からも私を囲み、


私の上にみ手をおかれます。

このような知識はあまりに不思議で、

私には思いも及びません。

これは高くて達することはできません。

中国の西遊記にも仏様の手の平を飛ぶ孫悟空の話が出てきますが、神は私たちの存在の根底にあるのです。

この神に対する信頼を失わないこと、これが信仰の中核と言えましょう。私たちには理解できない形でみ心が行われているのですから、信頼していけますようにと祈るのです。

「地にも、天にも」です。ここまでは、主の祈りの第一部です。この第一部は、「天」という語で始まり、「天」という語で終わります。これはこの地上が天になりますようにという一つの願いを表すと同時に、感謝と賛美を表します。つまりこの地上を信仰の目で見ると、そこに天が見えてきて、そこから感謝と賛美が湧いてくるのです。したがって「主の祈り」の第一部を簡単に、「天の父よ、命を感謝してあなたを賛美します」と意訳で訳し直せるのではないかと思います。

 

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。

ここで初めて私たちの願いごとが出てきます。ここから「主の祈」りの第二部が始まります。願いことは感謝と賛美の後に出てくるものです。

「パンをください」と祈るとき、私たちは身も心も生かされるように願います。食べなければ生きていけませんが、人間はパンのみで生きるのではないことを思い出しながら、今日もまた「パンをください」と言います。これを、「どうか毎日、私たちの身体と心を強め、生きる力を与えてください」と言い換えることができるでしょう。

旧約聖書の中では、神が支配し全ての人が一つになるという神の国を理想としています。しかし、糧を得るためには何もしないで待っているのはよくありません。パウロは働かないでその糧を得ようとする人を、次のように叱っています。

「私たちがあなたがたのところにいたとき、働きたくないものは食べてはならないとはっきり言っておいたはずです。それなのに、あなたがたの中にはけじめのない生活を送り、仕事はせず、余計なおせっかいばかりしている者がいると聞いています。主イエス・キリストに結ばれている者として、そういう人たちに命じ、勧めます。黙々と働いて、自分で稼いだパンを食べなさい」(2テサロニケ3,10-12)。

私したちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

これは一番訳しにくく、誤解を招きやすいところです。言うまでもなく、ゆるしますからゆるして下さいということではありません。また、ゆるす限りゆるして下さいということでもありません。あなたからゆるされていることに感謝して、人をゆるすことができますようにという願いです。

このように解釈し説明するために、この文章を次のように三つに分けてみるとよいでしょう。

イ)私たちをゆるしてください、

ロ)わたしたちも同じように人をゆるすように決心します、

ハ)しかし、なかなかできませんのでお助けください。

人間はだれでも悪や罪の問題に直面します。そのとき自分は正しいものではないことを率直に認め、自分は今人をゆるしていないが、神が私をゆるし大事にしてくださっているように、実際にはなかなか人をゆるせない私ですけれども、どうかゆるす力をお与えくださいと祈ってみます。

ここで大切なことが二つあります。一つは自分が常に天の父から受け入れられており、ゆるされていることに対する感謝です。ゆるしを願うときにはまだ自分が中心にいますが、私をゆるしてくださっている方がいる、ありがたいと思うとき、中心は神のほうに移ります。他の一つは、天の父の目で私たちが人を見、人を大切にすることができますようにという祈りです。要するに人をゆるすことは、その人のために祈り、神がその人をゆるして下さるように天の父に祈ることであると同時に、その人をなかなかゆるすことのできない自分のためにも祈ることです。

さらにもう一つの大事なポイントは、自分自身をゆるすことができますようにという祈りです。自分を嫌悪し、自分をゆるすことができないということは、私たち皆がもっている大きな弱点の一つだからです。これらのすべての根拠は、結局、信頼に値しない私たちのような人間が神によって信頼されているという、ローマ書のあの信仰態度です。

敵を愛することができないのは、人間にとって自然のことでしょう。それでも、敵を愛する力をイエスから与えられるのです。私たちは敵をゆるすことができないでしょう。だからこそ、「み国がきますように」と祈るのです。そのとき敵をゆるすち力を与えられるでしょう。自分が受け入れることのできない人でも、神から受け入れられているのです。だから、自分はその人との間にある壁が取り除かれるように祈ります。「私たちがあなたから受け入れられているように、あの人もあなたから受け入れられますように」と。

私たちを誘惑におちいらせず、悪よりお救いください。アーメン

罪悪のことは最後に出てきます。宗教では、一般的にこれこれの悪事をすると罰があたるというように、人間の悪業に対して制裁が加えられることを説きますが、キリスト教では罰を与える神よりも、悪の問題から私たちを救ってくださる天の父を中心にしています。

もちろん人間の暗い側面は無視できないのです。その暗い面が主の祈りのこの第三部で扱われますが、罪や悪のことは信仰の出発点でもその中心でもありません。ゆるしと試みと悪のことが「主の祈り」の最後に出てくるという順序には、深い意味があると思われます。

誘惑に関してここで私たちが祈るのは、ただそれに負けないようにということだけでなく、負けてもくよくよしすぎず、立ち直ることができる自信が与えられますようにということです。負けないように力をお与えください、そして負けても神に対する不信というもっと大きなあやまちに陥ることのないようにしてくださいという祈りです。

「天の父」で始まるこの「主の祈り」は、あくまでも希望を与え、希望の根拠を認めて感謝する祈りですが、安っぽい楽観主義ではありません。色々な苦しみと悩みに出会い、さまざまの矛盾を背負いながら生きていく人間は、いろいろな形で悪の問題に直面します。自分の肉体の弱さから精神的な欠陥まで、人間嫌いの気持ちを起こさせる面倒な人間関係から人生の疲れを覚えさせる世の住み難さまで、さらに罪がなぜ存在するのかという謎まで、悪の問題に直面せざるを得ない人間は、安っぽい楽観主義に甘んじているわけにはいかないのです。

イエスが説く希望は、悪の問題を軽く片づけるものでも、それに対して理屈っぽく出来合いの解決を伝えるものでもありません。イエスが説いたのは、悪の問題があるにもかかわらず、最終的には希望があるということです。そしてその根拠は、天の父がおられるということです。この天の父に感謝して「われらを悪より救いたまえ」と祈ります。この二つの祈り方は、切り離すことのできないものです。

生きる力

以上のように簡単に、「主の祈り」にある一つ一つの願いについて考えてみました。より詳細な研究は他の学者に任せて、最後に私流に繰り返したいと思います。

天にも地にも、私の中にも、すべての人のなかにも、

どこにでもおられる、いのちの源なる父よ。

われわれにいのちを与えてくださったことを感謝して祈ります。

すべての者が一つになるときがきますように。

どうか、毎日私たちの心と体を強め、生きる力をお与えください。

そして、

私たちを毎日のエゴイズムから解き放ってください。

あなたから受け入れられている

わたしたちが、

人を大事にし、互いにゆるしあって生きることができますように。

どうか私たちを悪から解き放ってください。



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