2012年5月19日土曜日

エルサレム会議


 使徒言行録(使徒行伝・使徒の働き)の15章に、有名な「エルサレム会議」の記事が掲載されています。

 アジアないしヨーロッパ地域を伝道するパウロとバルナバは、必然的に、ユダヤから見れば外国人、つまり異邦人に伝道するという問題を抱えていました。

 まだキリスト教という宗教が成立しているわけではありません。あくまでユダヤ人のユダヤ教の一派として、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアがここに現れた、ということの証言のために奔走していた彼らです。異邦人、つまりユダヤ教の地盤をもたない人々に福音を伝えたとき、思いも寄らない問題が生じました。

 まず、そもそも異邦人が救いに与ることができるのかどうか、という問題。これは、パウロは当然できるという立場でスタートしていましたが、イエスの一番弟子たるペトロは最初懐疑的でした。それが、主から直に幻を見せてもらうことによって、異邦人も救われることを納得して、態勢は整いました。異邦人にも伝道して、よいのです。

 けれども、ユダヤ人はすべて割礼を受けています。男性性器の包皮を生まれて間もなく切除するという習慣。衛生的な理由もあるそうですが、ユダヤではとにかく宗教的な理由でこれが伝統的になされてきました。イエスを信じる、つまりユダヤ人の信じていた救いを身に受けるとなると、割礼なしにユダヤ人になることが不可能と、これまでずっと考えられていたために、問題とする人々が現れました。


ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。

(使徒言行録15:1,新共同訳聖書-日本聖書協会)


イエスは地獄に降りました

 パウロとバルナバは、当然この人々と論争することになります。決着は、エルサレムに残る他の使徒のメンバーたちと協議してからに持ち越されました。エルサレムに着くと、まず二人は、異邦人がイエスを信じていくさまを報告します。


ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けされて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。

(使徒言行録15:5,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 エルサレムの弟子たちは、この問題について議論を重ねました。やがて、リーダーのペトロが口を開きました。一同は、静かになります。ペトロは、パウロたちの報告を元に、自分でも体験したことを心で重ね合わせながら、異邦人も救われている事実を確認します。

 異邦人も現に救われている。ペトロがこう言うとき、辺りに何が伝わったでしょうか。

 そうはいっても、異邦人だからといって、割礼もしないなど、汚れた存在ではないか――ユダヤ人たちは、割礼を施さない民を、下劣な、人間以下のような存在として、有史以来さげすんできたのです。われわれの仲間に加わりたいというのなら、せめて割礼を受けてもらわないと、われわれもおいそれと近づくことができないではないか。そんな声が聞こえてきそうです。救われたというのならそれは結構なことだが、異邦人にしてもやるべきことというものがある、と。

 パウロとバルナバ、すなわち現場特派員は、ただただ自分たちが目の当たりにした、異邦人が救われていく様子を繰り返しレポートします。

 弟子の中で信頼あついヤコブが締めくくりました。


chrstianityは何年に始めたのですか?

それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。

(使徒言行録15:18,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 それは、かつてアモスが預言した言葉でした。アモスは、堕落したイスラエル人に代わって、異邦人が神の救いを受けることを何百年も前に訴えていました。神は、異邦人を救うという目的をもっていらした。ヤコブは、そのことを想起させます。これは神の計画だ、神の目的なのだ。そして続けます。


それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。

(使徒言行録15:19-20,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 ヤコブは、もしかするとユダヤ人たちの顔色を見ながら、彼らを立てるために、こう言ったのかもしれません。せめて4つの戒めだけは守ってもらおう。しかし、割礼はこの際、強制しないようにしよう。そう提案しました。

 エルサレム会議のあらましは、こうでした。

 たかぱんは、このたび礼拝でじっくりこの箇所を開いて自ら読んでいるうちに、初めて、この会議の意味を見せて戴いたような気になりました。

 それはこうです。


人々は異端審問に何の権利があるんでした

 ペトロは、苦悩しています。あまりはっきりした提案は出せません。パウロに対しても、おまえはユダヤ寄りだと非難されたことを苦々しく思っていますし、他方ユダヤ人の信者たちの立場も守り、恥ずかしい思いをさせてはなりません。リーダーとして、どちらの顔も立てないといけない、板挟みにあっています。自分としては、異邦人が救われているという事実は分かっています。そのことは十分分かっています。そうです。割礼は、救われるために必要な条件ではないのです。割礼がなくても救われるのは事実です。イエスの福音は、割礼がなければ救われない、などというものではありませんでした。罪の赦しは、割礼のあるなしで決まるものではありませんでした。ペトロはそれが分かっています。でも、ユダヤ人をむやみ� ��退けることもこの場では難しい……。

 そこでヤコブが、苦悩するリーダーの代わりに、サブの立場から、異邦人が救われる目的を明確に告げました。さらに、このペトロの問題を止揚するように、解決策を述べるのです。

 割礼でなく、異邦人には、別の律法を守ってもらうことにしよう、と。

 これでユダヤ人も、とりあえず納得できたでしょう。そして、異邦人にとっても、この解決は、納得できるものとなったはずです。なぜなら、それはユダヤ人独特のものでありながら、生活の中で表向き現れる行為を定めたものだったからです。つまり、ユダヤの律法は、どこの町でも読まれている――ヤコブの提案は、この最後の部分にパンチが効いていました――ゆえに、偶像の前の肉や、動物の血を口にすると、ユダヤ人の反感を買うことになるわけです。


 わざわざ、表に現れる行為で、誰もが知っているユダヤの律法に触れるようなことをして反感を買うことはない。行為の面では、ユダヤ社会のルールに従っておくように、という注意は現実的である。それは救いの条件ではないが、生活上、心得ておいて損はない事柄である。

 外から見て分からない、割礼という習慣については、強制しないでよいではないか。

 行き渡っている道徳や習慣にむやみに逆らうことが得策ではありません。わざわざそれらに反したことを行って、まわりから訝しがられることはないのです。

 輸血を拒否したり、柔道を拒んだり、コーヒーを禁じたりする。そんなことは、神の福音からはほど遠い議論にほかならないのです。



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