2012年5月1日火曜日

寒河江(さがえ)キリスト教会ブログ : 「聖なる祭司として」 教会とは何かシリーズ12


   日曜日の礼拝で牧師がお話した聖書のメッセージです。

 「教会とは何か」シリーズ12
   「聖なる祭司として」   2010.9/12
   ペテロの手紙第一2章1‐9節より


教会の特徴は何ですか?

1 教会が「祭司」であるとは・・・?
 これまで私たちは、「教会」というものを、いろんなキーワードを通して学んでまいりました。たとえば、「教会は神の家族である」とか、「キリストの体である」とか、「祈りの家である」とか。そして今日は、「教会は祭司である」って教えられてるんですね。
 5節をご覧下さい。「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
 また9節にも、こうあります。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」
 では、祭司って一体、どんな人なんでしょう…?今の日本じゃ見当たらないと思います。まあ、教会の牧師に似ていますね。祭司も牧師のように聖書を教えたし、礼拝を執り行って、祈る・・・ってことをしたんです。
ですが、最も重要な「祭司ならではの働き」は、「生け贄を捧げる」ってことだったんです。昔のユダヤでは、神様を礼拝する時には、決まって「生け贄を捧げる」ってことをしました。羊や牛といった動物や、時には畑の作物なんかを祭壇の上で焼いて煙にする・・・ってことですよ。それは、旧約聖書の時代では、人間が神様に受け入れられるために欠かせないことだったんです。だって、罪深い人間が、どうしてそのまんまの姿で聖なる神様の前に出れるでしょう? 汚れや嘘や、自己中心な罪深いものを抱えたまんまで、どうして聖い神様に、祈りや願いを聞いていただけるでしょう? それにはまずは、その人自身の罪が赦し聖められる・・・ってことが必要だったんです。そのためになされたことが、「生け贄を捧げる」っ� �ことだったんですね。つまり、生け贄っていうのは「身代わり」だったんです。「罪深い人間の身代わりの犠牲」として捧げられてたものだったんですよ。
 ですが、その生け贄を実際に祭壇の上に捧げるっていうことは、誰でも出来ることではなかったんですね。それは、神様によって立てられた「聖なる祭司」でないと出来ない務めだったんです。祭司はその時に、「人々のために、人々に代わって神様の前に立って、人々が願い求める赦しや救いや、様々な問題解決を、神様の前に執り成しをする」って働きをしてたんです。一言で言うならば、「祭司」は、「世の中の人々のために、神様に執り成しをする人」だったんです。そして、「教会が祭司である」ということは、教会がまさに、そういう働きをするものとして、神様から召されてる・・・ってことなんですよ。
 
 けれども、そんな大それた事が、果たして私たちに出来るんでしょうか?また、そんな大それた働きを、本当に神様は、こんな私たちなんかに任されてるんでしょうか・・・? 
 そう、任されているんですね。そして私たちにも出来るんです。なぜならば、それは私たちが一人で背負うんじゃなくて、私たちよりも遥かに勝った大祭司がおられるからなんです!それは他でもない、神の御子なるイエス様です。実は、このイエス様こそは、私たちにとっての真の大祭司であって、「神と人との間の唯一の仲介者」なんですね。イエス様こそは、私たちのために「十字架という祭壇」の上で、動物じゃなくて、なんとイエス様ご自身を、「永遠の生け贄」として捧げて下さった方なんです! そして私たちのために、ただ一度の十字架の受難を通して、「永遠の赦しと救い」を勝ち取って下さったんですよ!
 またイエス様は、この地上の生涯においても、大勢の苦しみ悩む人々に、天の父なる神様に執り成し祈って、癒しや救いを与えられる・・・ってこともして下さったんです。そして、今もイエス様は、天の父なる神様の御許で、私たち皆のために執り成し続けて下さってるんですね。

なぜ王ジェームズ
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 そういうイエス様を心から信じて、このイエス様に「ぶどうの枝」のように繋がっているならば、こんな私たちであっても「祭司の務め」が出来るんです。・・・というか、イエス様は、ご自分の「祭司として働き」を、今もこの地上のたくさんの人々のために、私たちに続けて行って欲しいって望んでいらっしゃるんですよ。それでイエス様は、こう私たちを励まして下さってるんですね。
 ヨハネの福音書14章12節。「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」

2 祭司となって仕えるための具体策は・・・?
 そのように「聖なる祭司」となって、人々のために神様に執り成す働きをする・・・ということは、確かに尊い働きだと思います。だけど、それはどうやったら出来ることなんでしょうか?昔の祭司たちが着ていた祭司の服でも、身に付けたらいいんでしょうか?いいや、そうじゃないんです。私たちが「聖なる祭司」となって、神様に喜ばれる執り成しの働きをして行くためには、ある事柄がどうしても欠かせないんですね。そのことを、これから三つの点で覚えたいと思うんです。


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1)みことばに聞き、みことばに教えられること
 まず第一に、私たちにとって欠かせないことは「神様のことば、聖書のみことばに、しっかりと教えられる」ってことです。私たちは、「世の中の人たちのために何かをしたい、役立ちたい」っていう善意の気持ちを持っていると思います。そして、それを思い切って実践してい方々もおられます。だけど、「聖なる祭司の働き」というものは、ただ単に、「人の善意」だけで出来ることではないんです。この働きは、神様のおことばにしっかりと教えられてこそ、正しく出来ることなんです。なぜなら、私たち自身が「これは良い事だ」と思うことと、神様が「良い事だ」と思われることは、必ずしも同じじゃないからです。
 旧約聖書の民数記に書いてる話ですが、モアブの国に、バラムという預言者がおりました。そのバラムのもとにある日、モアブの王様が、「イスラエルの民を呪ってくれ」ってお願いにやって来たんです。ちょうどそれは、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出して、モアブの国の近くまでやって来た時のことだったんですが、モアブ人にとってはそれは非常に大きな脅威に見えたんです。だから、彼らにとっては「イスラエルを呪うこと」は良い事だったんですよ。ところがバラムは、モアブの王様の願い通りにはしなかったんですね。というのは神様は、「イスラエルの民をのろってはいけない。わたしはこの民を祝福してるんだ。」と仰せられたからです。それでバラムは、こう言ったんです。「私は私の神、主� �ことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」
 そんなふうに、ただ単に、困っている人の願い通りに執り成してやることが「祭司の働き」ではないんですね。そうじゃなく、「神様のおことば、教えにかなうように執り成すこと」、それが本当の「祭司の務め」なんです。

2)神様に執り成して祈ること
 二つ目に欠かせないことは、「祈る」ことです。先週私たちは、「教会は祈り家です」と教えられました。そんなふうに、「祈り」なくして「祭司の働き」はあり得ないんですね。
 ある時イエス様は、ご自分の弟子たちに、「病を癒して悪霊を追い出す権威」を授けて世に遣わされました。ところがある人が、お弟子たちに悪霊につかれた息子を癒して下さいとお願いしたのに、その息子は癒されなかったんです。それで、イエス様がその少年を癒してあげたんですが、その時に弟子たちはイエス様に聞いたんですね。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが・・・」って。するとイエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」とおっしゃられたんです。 弟子たちは、なにも怠けていたんではなくて、何とか助けてやろうと頑張ったんですね。だけど、とんだ思い違いをしてたんです。何か「自分たちに助ける力がある」と思い込んじ� �って、自分たちの力で何とかしようとしたんです。そして、何にも出来なかった・・・。
 けれども、「祭司」というのは、そういうものではないんです。「自分の力」を当てにするんじゃなくて、「神様の力」にお頼りするんです。それが「執り成す」ってことであって、その時にすることが「神様に祈る」ってことなんですよ。
 先週お話ししました横田早紀江さんの話を思い出して下さい。あの横田さんのために、教会の方々が20年間も一生懸命に祈り続けてくれました。その結果、「死んだかもと思っていためぐみさんが、北朝鮮で生きていた!」ってことが分かったんですね。だから、私たち自身は無力であっても、全能の神様に助けを求めてお祈りして行くことが、「聖なる祭司の働き」なんですよ。


3)人々と関わる交わり(コイノニア)を持つこと
 三つ目に、「祭司の働き」に何としても欠かせない大切なことがあるんですね。それは、「世の中の人々や、教会に来ている方々と、実際に関わりをもってお交わりを持つ」ってことなんですよ。 言い替えるなら、「神様の執り成しを必要としている人々と、実際に接点を持つ」ってことなんです。これがないならば、事実上「祭司の務め」は果たせません。 なぜなら、これがないと私たちは、「誰のために、どういうことを神様に執り成したらよいのか」ってこと自体が分からないからです。
 私たちは普通、ただ単にどこかに集まってる・・・ってだけでは、お互いの素性はよく分かりません。互いに顔を合わせて、ことばを交わしてお交わりをする・・・ってことがないと、夫々が密かに抱え込んでる問題に触れる・・・ってことは、まずありません。
 人間っていうものは、「本当に助けが必要で、誰かに執り成してもらわないとどうしようもない」って問題ほど、表面的な付き合いだけでは、なかなか腹を割って話さないんですね。人は、表面的な付き合いを越えた絆が生まれた時にこそ、初めて「自分自身じゃ抱えきれないもの」を分かち合うんです。だから、私たちが本気で誰かと関わり合って、そういう交わりを持とうとしない限り、「聖なる祭司としての働き」は「絵に書いた餅」で終わってしまうんですよ・・・。
 イエス様を見てみましょう。イエス様は、あらゆる機会に誰かと向き合って対話するっていうお交わりを持とうとされました。ニコデモにも、サマリヤの女にも、そうでした。ザアカイや、会堂管理者ヤイロや、十二年間長血を患ってた女の人や、38年間ベテスダの池で病に伏せってた人や、ゲラサ人の地でたくさんの悪霊につかれて墓場で叫び回ってた人にもそうでした。さらにイエス様は、「あの方は、なんで取税人や罪人どもと一緒に飲み食いするんだ?」って非難されるくらい、皆から爪弾きにされていた人たちと、たくさん時間を取ってお交わりをしたんです。それこそが、イエス様が身をもって私たちに教えて下さった「祭司の働き」だったんですよ! そうしてイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行 います」と仰せられて、私たちをもその働きの中に招いていらっしゃるんですよ。


 京都で働いておられる大谷心基さんという牧師がおられます。その大谷先生が、『百万人の福音』という雑誌に、ご自分の教会が体験した「ホームレスの方々とのお交わりの話」を連載しておられます。大谷先生は、元々ホームレスの方々に関わろうって思ってたわけではないんです。ですが、たまたま近所に鴨川があって、その河川敷にホームレスの方々が住んでいたので、そういうふうに導かれた・・・って話なんです。
 大谷先生は、月に一回その河川敷を回ってホームレスの方々を訪問しておられるんですが、ある日、ホームレスでは珍しい「茶髪の特攻服姿のお兄ちゃん」を見つけたといいます。それで、いろいろ素性を尋ねて「困ったら教会においで」と言ってあげたというんですが、ツッパって何にも答えくれなかったそうです。
 それから一ヵ月後、またその青年を訪ねたら、かなり髪型も服装もヨレヨレになっていて、ツッパリも限界に来てたというんです。それでまた「困ったら教会においで」って言ったら、二日後に、本当にその青年が教会にやって来て、名前や生い立ちなんかをすっかり全部打ち明けてくれたというんですよ。それは、身寄りが無くて施設で育って生きて来た、まことに孤独な話だったというんです。でもそれ以来、この青年は何か吹っ切れた感じで優しい顔になって、アルミ缶集めに励んだり、同じホームレスの人たちを助けるためのボランティア活動に自ら参加したりと、一生懸命に暮らして行ったというんです。「ああこれは、祭司の働きだなあ・・・」って私は思いました。
 ところがその青年は、しばらく経って顔色が悪くなって、まさに顔が黄色くなって来て、黄疸が出始めたっていうんですね。それで心配して「病院に行くように」って、しきりに勧めたそうなんですが、何としても彼は行こうとしなかったそうなんです。無理やり車に乗せて連れて行こうとしても、「覚悟は出来てる!」って言って、頑として動かなかったというんですよ。
 そんなある日、ボランティアに来ていたあるクリスチャンの看護師の女性が、その青年のあまりに黄色い顔を見るなり震え出して、「どうしたの・・・、お願いだから、もう病院に行って!」って、その場で泣き崩れたそうです。すると、それを見た青年は、ようやくこう言ったというんです。「俺のために泣き崩れてくれた人がおるわけやしなあ・・・、分かった、病院に行く!」って。
 実は、この青年は癌だったんですね。そしてこの後彼は、癌の治療を始めて行ったんですが・・・、この話について大谷先生は、こんなふうにコメントしておられます。「自分を心配して、目の前で支援者の一人が泣き崩れた。それを受け、彼は入院を決断した。その決断は、自分にかまってくれる人がいるという事実から起こされたのだ!」
 いかがでしょう、この看護師さんの姿はまさに、「聖なる祭司の姿」だなあ・・・って思うんです。で、それは、あのイエス様のように「誰かの人生に一生懸命に関わり、かまう」というお交わりの中から、生まれて来てるんですよ・・・。


3 「祭司の務め」を営んで行くための「場」
 こんなふうに、私たちが「聖なる祭司の務め」を果たして行くためには、「聖書のみことばに教えられること」と「神様に祈ること」、そして、「人々と関わりをもって交わりを持つ」ってことが大切なんですね。
 ですが、そういうことをやって行くためにはさらに、あることが必要になって来ます。それは「場」というものです。つまり、「何人かの人と聖書を学んで、祈り合って、お交わりをする」ってことをして行くために、皆で膝付き合わせるための「場」というものです。 そのことを思う時、私たちは、イエス様や最初の教会がやっていたことの意味が見えて来るんですね。すなわち、いったいどうしてイエス様が、大勢の群衆にメッセージするだけでなく、いろんな人と飲み食いするっていう小さなお交わりを大切にされたのか・・・?  そしてまた、最初の教会が、どうしてあんなに頻繁に家々に集まっては家庭集会のようなお交わりに勤しんだのか・・・、その理由が見えて来るんです。イエス様も弟子たちも、「聖なる祭司� �務め」を果たして行くために、「神様のことばを聞いて、祈って、人々と腹を割ったお交わりをする」っていう「場」を大切にしていたんですね。
 だとしたら、そういう「場」を設けて行くことは、私たちの教会が「聖なる祭司の務め」を果たして行くためにも、当然欠かせないことなんじゃないでしょうか・・・?



 先程の大谷先生の教会には、あるホームレスのご夫妻が、熱心に出席されるそうなんですが、そのご夫婦は、長年、河川敷でブルーシートを張ったお家で暮らしているそうです。そして、そのブルーシートのお家には、いつもお客さんが集まってる・・・っていうんですよ。 ホームレス仲間はもちろんのこと、ホームレスから脱してアパート暮らしを始めた人や、近所のおじさん、おばさん、子供たち・・・、それから、近くの高校生に大学生、外国人の留学生たちなんかが、皆気兼ねなく集まって来ては、コーヒーを飲んだり、鍋を突いたりして談笑してる・・・っていうんです。で、このご夫妻は、それを迷惑だって思ってるんじゃなくて、喜んでそういう「場」を提供してるんです。しかも、アパート暮らしをしようと思えば� �来るのに、敢えてブルーシートのお家に住み続けてるんですよ。
 どうしてそうしてるのか、その理由は聞いても言わないんだそうですが、実はそこに集まってる人たちは、いろんな傷を抱えた人たちなんですね。リストカットしてしまう若者や、いじめにあってる子供たちや、鬱を抱える学生、アルコール依存のおじさんに、日本で貧乏生活を強いられてる外国人の留学生たちなんです。この方々は、そのブルーシートのお家にやって来ては、ホッとして、慰められてるんですね。
それだけでなく、そこに来ていたあるご婦人は、死ぬことばっかり考えてたのに、もう一度、家族と一緒にやり直すようになったというんです。また、あるリストカットの常習者だった学生は、そのお交わりの中で励まされて行って、とうとう結婚して立派に家庭を営んで行くようになったというんです。そして、そういうことをいろいろ面倒見てやってたのが、このホームレスのご夫妻だったんです。
 でも、良い事ばかりじゃないらしいんですね。この夫妻のご主人の方は、以前ちょっとしたすれ違いで、そこに来ていた人から足をナイフで刺されたことがあるっていうんです。 それから最近は、そのご主人に大きな病気も見つかったっていうんです。だから、「無理しないでアパート暮らしを始めたら?」って勧めるそうなんですが、それでも固い決意をもってブルーシートのお家に住み続けてるんだ・・・っていうんです。
 それを見て、大谷先生は、「私は、このブルーシートのお家の食卓に、教会の本質を発見する。」と言っておられるんですね。私もそう思います。確かに、そんなに無理しなくてもいいと思うんです。だけど、このご夫妻は、自分たちの召された人生の中で、「聖なる祭司の務め」を果たして行くための「場」を営んで行くことに献身しておられるんですよ・・・。
 それならば、私たちは、どういうことが出来るんでしょうか?

結論
 自分の家を開放できなくても、教会の中にはもう既に、いくつかの「場」が設けられてます。セルグループ集会や、オリーブ会や、サークル・ハンズといった集まりです。それにまず、皆で参加しながら盛り立てて行く・・・ってことから、私たちは出来るんじゃないでしょうか?そしてさらに、初代教会がしていたように、「家々でパンを裂き、喜びと真心をもって集まる場」というものも、やがて、そういう中から生まれて来るかもしれません。
 忙しい世の中です。けれども私たちは、そういう志を、ぜひ皆さんで一緒になって共有し合ってまいりたいと思います。そして、私たちの教会が、この寒河江の町で、本当の意味での「聖なる祭司」となって行くことが出来ますように、心からお祈りしてまいりたいと思います。



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